遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

「大化改新」の真実 (2)

国家の統一と安寧のため、何をも辞さぬ決意。
どれほどの奇策を弄し手を汚そうと、どれほど人を裏切り、
殺して怨嗟の的となろうとも、いっさい意に介さない心。
それが必要でございます。
自分の汚さに耐えられる者でなければ、政治家、治世者にはなれません。
藤本ひとみノストラダムス集英社
(注)宮廷闘争を戦おうとするアンリⅡ世王妃、孤立無援のカトリーヌ・ドゥ・メディシスに言った言葉。

さいわいなことに、歴史は人間をその動機によってでなく、
行動によって判断する。
マイクル・クライトン『緊急の場合は』早川文庫)

こんなところで早々と負けるわけにはいかない。
戦う「自由」を放棄して、
見下ろしている者たちの言いなりになるわけにはいかない。
福井晴敏OP.ローズダスト 上』文春文庫)

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※この記事を書いている間、ずっとこの曲を聴いていたのでついでにお楽しみください。

 

歴史はいつも謎に満ちている。
そんな時いつも、関連する事項を含めてできるだけ全貌を概観してみる。
事実を先入観なしに見つめ、証拠のない出来事を説明できる論理があるか考えてみる。
こうした思考実験から時として、自分でも思いがけないリアルな歴史の相貌が姿を現すことがある。

今回の記事は、前回記事でご紹介したヒロゴンレポートの論評というより、想像力を逞しくして描いた皇族・豪族たちの描写、ということになってしまった。

皇位継承をめぐる豪族との関係年表】
安閑天皇宣化天皇の後ろ盾であった大友金村は、朝鮮半島政策の失敗を咎められ540年に失脚。
蘇我稲目物部氏と対立していた。
・587年4月 用明天皇崩御
・587年6月 蘇我馬子は、物部守屋が次期天皇に推した穴穂部皇子を殺す。
・587年7月 蘇我馬子は、穴穂部皇子を支持して対立していた物部守屋を殺す。
・587年9月 蘇我馬子の推薦で崇峻天皇即位
      しかし実権は馬子にあり、崇峻天皇は不満を持っていた。
・592年12月 蘇我馬子は、天皇は自分を嫌っているとして多数の皇族群臣と謀って、崇       峻天皇を臣下に殺させた。
・593年1月 推古天皇即位(蘇我馬子の支持)
・628年4月 推古天皇崩御
       推古天皇の後継をめぐって山背大兄王蘇我氏諸流の支持)と田村皇子      蘇我蝦夷の支持)が争う。
      蘇我蝦夷から山背大兄王皇位辞退圧力があった。
・629年2月  舒明天皇即位(田村皇子)
・641年11月 舒明天皇崩御
・642年2月  皇極天皇即位
          蘇我入鹿古人大兄皇子天皇にする中継ぎとして皇極天皇を推薦したこ        とで、山背大兄王蘇我氏との対立は決定的となった。
★643年12月蘇我入鹿は、山背大兄王を殺す。(中大兄皇子17歳、鎌足31歳)
☆645年7月10日乙巳の変中大兄皇子中臣鎌足らは蘇我一族を滅ぼす。                       (中大兄皇子19歳、鎌足31歳)
・645年7月12日皇極天皇孝徳天皇に譲位
★645年10月中大兄皇子は、謀反の密告によって古人大兄皇子を殺す。       (中大兄皇子19歳、鎌足31歳)
・654年11月 孝徳天皇崩御 (孝徳天皇中大兄皇子とは遷都をめぐって対立した)
・655年2月  斉明天皇重祚)実権は中大兄皇子が握る。(中大兄皇子29歳)
★658年12月 有間皇子は、蘇我赤兄の謀反を唆され、逆に赤兄に密告され捕まる。
 中大兄皇子に尋問され捕まった翌々日に絞首刑。(中大兄皇子32歳、鎌足44歳)
・661年8月  斉明天皇崩御
・663年 白村江の戦いに敗れる
・668年2月天智天皇中大兄皇子)即位42歳(~672年1月崩御45歳)


上記年表と「皇室と蘇我氏の関係略系図」(以下「略系図」)をしばし眺めてみよう。

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『詳説日本史研究』山川出版社1998年

【皇族・諸豪族の覇権争い】
そう、皇族と大伴氏物部氏蘇我氏たち諸豪族は、天皇皇位継承をめぐって常に争っている。皇族は具体的な政治や軍事を担う豪族を必要とし、豪族は一族の権勢発展を目的に皇族と関係を持とうとする。つまり、天皇という権威、実権に自分たちがいかに関わることができるかが重要だった。

だから、皇族・諸豪族の間で派閥・党派のようなものがあったと考えるのが自然だろう。内政、外交をめぐる対立も、結局のところこうした党派間の争いであり、最後は天皇の座をめぐる争いとして顕現する。

皇族は、自分が天皇になるために、或いは自分の息子を天皇にするために、有力な豪族と手を組み関係を深める。豪族はといえば、天皇に娘を嫁がせて、あわよくば孫を将来の天皇にしてそれを後見するために、一族の権勢を高めていこうとする。

従って、馬子穴穂部皇子を暗殺したのも、崇峻天皇を暗殺したのも、その後逮捕もされず何の咎めも受けずに、炊屋姫尊を支持し推古天皇にできたのも、明らかに蘇我氏推古天皇の共謀があったと考えるほうが合理的だ。

皇族と諸豪族は共通の利害で動く派閥的集団を形成していた。そして、究極的には天皇の座をめぐる権力闘争を繰り広げることになった。それはまた、後世にも見られる関係でもある。

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(左)推古天皇(右)皇極(斉明)天皇 Wikipedia

中大兄皇子中臣鎌足
焦点を中大兄皇子付近に持ってくると、ある事実が浮かび上がってくる。
天皇の座をめぐって、中大兄皇子のライバルたちが次々と殺されていくのだ。
(年表「★」「☆」、「略系図」参照)

643年12月入鹿山背大兄王を殺した時、中大兄皇子は17歳だった。さすがに、17歳がこれに何らかの関りを持っていたとは思えないが、しかし、645年の乙巳の変を起こした時はまだ若干19歳だったから、物心ついてすぐの17歳の時期に、自分の立場や行く末について考えはしただろう。

そして、山背大兄王が一族もろとも滅ぼされたとき、皇族でも隙を見せれば自分だって殺されるのだと、若いが故に強く心に刻んだ事件だったのではないか。

或いは将来を考え、ライバルを潰してくれる蘇我氏の側に立った可能性だってあったかも知れない。そして「蘇我入鹿、次はお前たちだ」と決意するほどに、恐ろしい若者だったかもしれない。

蘇我氏全盛期であれば、他の豪族には不満をもっている者もいただろう。そして、自らのあるべき人生に導いてくれそうな、あるいは相談にのってくれそうな人物に出会ったとしたらどうだろう。12歳年長の中臣鎌足がその人だった。

人生には師とすべき人物がいるものだ。19歳の若者が一人で蘇我氏撲滅を計画したとは考えられないだろう。参加するものの命を懸けて、方針を立て、組織を作り、実行部隊を指揮し、実行しなければならないのだ。実行まで事を秘し、事が成就した後の措置を含めて、乙巳の変は周到に練られた計画だった、とモンモには思える。

中臣鎌足こそ乙巳の変を計画した首謀者だったとモンモは考えている。遣唐使の留学生だった南淵請安儒教塾で入鹿と鎌足は二人とも優秀な生徒だった。このライバル関係が作用した可能性もある。これ以上、蘇我氏を皇族に入り込ませてはならないと。

乙巳の変が成功したからこそ、孝徳天皇期にずっと内臣を務め、皇太子となった中大兄皇子天皇をつなぎ、中大兄皇子の側近であり続けた。左大臣であった石川麻呂とともに、孝徳天皇を見張っていたかも知れない。それ故、天智天皇は、鎌足が死ぬ間際に「藤原」姓を贈ったのだと思う。

師であり、相談役であり常に側近にあった彼なくして、中大兄皇子の人生は切り開けなかった。蘇我氏庶流の石川麻呂を仲間に引き入れ、自分とともに蘇我一族を滅ぼし、ライバルたちを亡き者にし、斉明天皇の権力を有名無実化して自らが実権を握ることができたのも、中臣鎌足天智天皇の生涯の参謀・側近であったからだ。

蘇我氏の滅亡と中大兄皇子
蘇我氏の視点からこの「略系図」をみれば、これだけ天皇の候補者がいれば、自らが天皇にとって代わろうなどと考えること自体が無理というものだ。それをしたら皇族を全部敵に回さなくてはならず天皇に娘を嫁がせて、外戚として力を持つ方が合理的だったろう。

共通の利害を持つ皇族と手を結び、おのれの基盤を維持・強化すること。しかし自分に対立する天皇・皇族を排除するには、有力な皇族の支持がなければならない。穴穂部皇子崇峻天皇を暗殺したときは推古天皇のような明敏な人物がいた。蘇我氏の推薦を受けたとはいえ推古天皇は、ただの傀儡ではなかった。

皇極天皇だって、古人大兄皇子よりは実子である中大兄皇子天皇になって欲しかっただろう。蘇我蝦夷入鹿を殺してすぐ、古人大兄皇子を殺し、孝徳天皇の遷都には大勢の一族・豪族を引き連れて逆らった中大兄皇子にしてみれば、残った有間皇子など怖くなかったはずだが、念には念を入れて蘇我赤兄を使って罠にはめて刑死させている。

この周到さを見ると思わず慄然とする。

蘇我氏と組んだ古人大兄皇子の場合だって、蘇我氏が扱いやすかった分、強い気概を持った人物でもなかったと思われ、中大兄皇子にしてみれば組みしやすかったに違いない。しかも、その後ろ盾を滅ぼしているのだから問題はなかったはずだ。それでも謀反の疑いをかけて殺している。一流のリスク管理と言うべきだろう。

蘇我氏滅亡の理由は、唯一、中大兄皇子の人物を見抜けなかったことだろう。
天皇にとって代わろうと専横を究めたことが、乙巳の変の原因ではなかったと思う。
中大兄皇子にとっては「天皇になる」という強い意志を持ちつつ、自分が生き残るためのクーデターのようなものだった。
計画が発覚することもなく乙巳の変を実施できた中大兄皇子側に、一日の長があったのだと思わざるを得ない。

ここまで書いてきて、何となく信長を思い起こしてしまった。
信長は49歳で死んだが、天智天皇もまた45歳という若さで死んだ。信長のように謀反にあったわけではないが、その行動の果断さといい、斉明天皇崩御した後も、7年間も即位しなかったその自由さといい、実権を握って豪族たちを抑えられる実力があったからこそ、即位などしなくてもいいのだという強い自負を感じる。

乙巳の変の時19歳、それから崩御するまでの実質26年間の、疾風怒濤の人生だったと思われる。

【ヒロゴンの問題意識に即しての追記】

蘇我氏は「悪人」ではなかったが、見た資料が不足しているせいか、評価できるほどのものは見いだせなかった。中大兄皇子も「正義者」ではなかった。しかし、古代史において最も傑出した人物の一人だったと思う。
二人は、自らの利害のために政治的闘争の結果、勝敗を分けた。蘇我氏には突然のクーデターのようなものだったが。

結果的に、歴史書を書くものによって、それぞれの人物像が作られ後世にイメージされるようになった。が、後世の歴史資料の検証によって、徐々にそのイメージに修正が加えられてきたのは、偏見を持たない歴史研究の成果だろう。

大化改新の諸政策が実施されたのは事実だった。が、本格的に始まったのはヒロゴンレポートにある通り天智天皇が即位してから、天武天皇にかけてではないかとモンモにも思われる。

天智天皇は、白村江の戦いに敗れ、国力をつけなければと思っただろう。
そこから、彼は本格的に「大化改新」とされた諸政策を推進することになったのだと思う。

後は、ヒロゴンレポートにあったように、『日本書紀』の編纂過程で鎌足の息子の藤原不比等らが修正を加えた。それが、天智天皇を生み出し、共に人生を切り開いた父鎌足へのなによりの弔辞であったのだと思う。

ダン・ブラウンが『ダ・ビンチ コード』に書いたように、歴史は、いつだって勝者のものである。

歴史はつねに勝者によって記される…
一方が敗れ去ると、勝った側は歴史書を書き著す。
みずからの大義を強調し、征服した相手を貶める内容のものを。
ナポレオンはこう言っている。
「歴史とは、合意の上に成り立つ作り話にほかならない」


【最後に】
ヒロゴンレポートを読まなければ、上記のような中大兄皇子の人物像にはたどり着けなかった。
恐らく想像するに、彼は独立心に富み、自由で、諸豪族からの人望の厚い、古代において傑出した人物だった。モンモが歴史小説を書く作家なら、信長とともに是非書いてみたい魅力的な人物だったと思う。

ヒロゴンには、とても面白い「ミステリー」レポートを読ませてもらったことを感謝したい。

(参考資料)
ヒロゴン『大化改新の真実』2018年7月
五味文彦 他編『詳説日本史研究』山川出版社1998年
『必携日本史用語』実教出版1998年
Wikipedia蘇我氏天智天皇中臣鎌足推古天皇崇峻天皇推古天皇皇極天皇孝徳天皇他)

尚、中大兄皇子中臣鎌足の年齢については生まれた月が分からなかったので、生まれた年と、事件のあった年から求めた。