遥かなる「知」平線

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信長 安土城(2)4つの道

やがて信長は、無辺という僧にきいた。
「客僧(無辺のこと)の生国はどこか」
無辺は、「無辺」と答えた。
信長は重ねて「唐(中国)か天竺(インド)か」と聞いた。
無辺は、ただ「修行者である」と答えた。
すると信長は
「人間ならば、かならず日本か唐か天竺かの生れのはずなのに、
そのどこでもないというのは不審である。
さては、化け物にちがいない。ためしに火あぶりにしてみろ」
と言いだした。
(『信長公記』より)


安土城には4つの道がある。

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【4つの道】

1.大手道(おおてみち)

安土山の麓にある「大手門」から、幅6メートルもの道が180メートルも一直線に伸びている。道の両側には大きな屋敷があった。伝「秀吉」邸、伝「利家」邸(注)だ。いざという時は、城の防衛拠点にもなっただろう。
(注)「伝」とあるのは、「伝えられている」という意味。


しかし、この道は普段は使われていなかったとされている。「ふだん使う道」ではなく「見せるための道」であったという。両側を大邸宅に囲まれて、一直線に天主へ180メートルも伸びる石段の道は、それを見る者にとっては壮観な眺めだったろう。もちろんそこをのぼる者にとっても。

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が、しかしこの道は途中から西へ複雑に屈折して、「主郭外周路」という城隔を南側からぐるっと回り込む道へ接続する。

2.百々橋口道(どどばしぐちみち)

この道は「ふだん人が通る道」とされ城下町から城郭へ入ることができた。途中に、總見寺という寺院がある。本堂、庫裡(くり)、山門、三重塔、鐘楼塔など七堂伽藍のある寺院が城郭内にあるのは安土城だけであるという。
人々が總見寺に参内するにもこの道を使うことになる。總見寺を経由して「主郭外周路」へ接続する。

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しかし、「ふだん人が通る道」として一見「開かれている道」であるのに、石塁と塀に遮られて道の周囲が見れない。「開かれている」ようで「閉じられている道」なのだ。

3.搦手道(からめてみち)

城の東側から城郭へ至る道がある。この道は、当時の琵琶湖へと続き、船で物資を運び込む道であった。戦時に使う城ではなく、日常住む城であったことから、日常生活のための物資を運び入れるために、水上交通路へと続く道として初めから計画された道だった。いかにもロジスティックスを重視した信長らしい。
そして城郭中枢部がある山側へは、「蔵屋敷」を経て城の「台所」へと城郭の中へ消えて行く。

4.七曲がり道

家臣団が住む屋敷のある北西の区画から、「黒金門」へ至る道だ。

【本丸御殿へ至る道】

前の記事で、本丸御殿は天皇を招く建物と考えられていると書いた。
ならば、天皇もしくは朝廷からの使者はどの道を通ってここに至るのか。それは先に「見せるための道」と書いた「大手道」だ。その意味で、この道は政治的な道であり、「天皇の道」とも呼ばれている。


しかしこの道は、まっすぐ本丸御殿に至るのではない。遠く頭上に天主を見あげながら、大手道を上る天皇や公家たちは、途中で複雑に屈折する道を上り「主郭外周路」へ接続し、その「主郭外周路」を東へぐるっと回り込んで、朝廷にとって正式な正面とされる南側から、本丸御殿へ入って行く道筋になっている。

なぜわざわざこうした道筋になっているのか。
もちろん、戦時にいざというときのために、複雑に道を曲げたということはあるにしても、この道は信長の天皇に対する考え方が反映しているのではないかと考えられている。別の言い方をすれば、「信長と天皇の関係を見せつける意図をもった道」だというのだ。いわば政治目的の道である。

【城の性格】
こうして4つの道を全体としてみると、この城に込めた信長の考え方がわかる。こうした城は、それ以前にも以後にもみられない機能・性格を持つものであった。

天皇を自らのコントロール下に置いた政治的施設としての城
・宗教的施設を要し、庶民も参内できる開かれた城
・政治を支える家臣団を一箇所に集めた区画を配した城
・琵琶湖水運を利用したロジスティックスを重視した城

こうして、民衆にも朝廷にも、ここを訪れる諸侯、外国人にも、自らがこの国の支配者であることを、それぞれの道を通して目に入るこの石造りと金箔で装飾された壮麗な城で、示したのだと思う。
しかし、これだけではない。驚きはさらにつづく。

(つづく)