遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

Station Black Out(全交流電源喪失)

2013年7月9日、元福島第一原子力発電所の所長だった吉田昌郎さんがお亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈りいたします。(7月9日追記)

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ある人々は現実を見ていう。
なぜだ、と。
私は不可能な夢を見る。そして言う。
やってみよう、と。
Some men see things as they are and say,why.
I dream things that never were and say,why not.

命というものは
意味がある時に使って初めて価値があるものだ。
私は行く。
ロバート・ケネディ

(注)1968年4月、アメリカでキング牧師が暗殺された時、全米で暴動が起こった。大統領選挙戦でインディアナポリスの黒人街のど真ん中でスピーチを予定していた上院議員ロバート・ケネディは、地元の警察署長に危ないから町に入るなと止められた時、この言葉を署長に言った。
その後1968年6月、ロバートはロス・アンジェルスでサーハン・サーハンという男に暗殺された。42歳だった。兄ジョン・F・ケネディの大統領時代、司法長官を務めた。


あの日(3.11)から2年になる。
門田隆将著『死の淵を見た男』(PHP)を読んだ。

コンピュータに関わるトラブルに多年携わってきたが、事故は、その時その場所に居た人間によってしか対処できないし、対処するに万能な規則・マニュアルなどなく、そこにいる人間の知恵と勇気によってしか困難を打開できない、という真実を、はからずも確認することになった。

この事故は、放射能放出量ではチェルノブイリをはるかに上回る史上最大の原発事故となった。
2011年3月11日14:46の地震後、大津波によって15:41に福島第一原発は「全交流電源喪失(Station Black Out)」状態となった。

原子炉の状態をモニターする計器類が一斉に停止し、最悪を想定せざるを得なくなった彼らは、「原子炉に水を入れる」という一点に向かって行動を開始していた。手動で原子炉への水供給ラインを作る方針をいち早く立て、電源車の要請とともに、17:00過ぎには自衛隊に消防車の手配を要請している。

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2011.3.24照明が戻ったときの一号機中央制御室

できることを今、やるしかない・・・知恵を出してできることをやる」(吉田所長)
19:00位から放射線量が高くなり、原子炉建屋への入室が禁止される前に、注水ラインを作っていった。すべて現場のリーダたちの判断によるものだ。
格納容器の圧力が高くなり爆発を避けるための「ベント」を、原子力安全委員会斑目委員長が主張していた。

3月12日早朝、首相がヘリで原発に行った。事前に説明しようとした斑目委員長へ「俺の質問だけに答えてくれ」とぴしゃりと言い、降り立った原発のグラウンドで、出迎えに挨拶した東電の武藤副社長に、いきなり「なんでベントをやらないんだ!」と声をあげた。
なんで早くやらないんだ、いつになったらできるんだ、なんでできないんだ・・何が問題なんだ」と「おまえら何やってるんだって怒鳴りつける感じ」だった。

現地対策本部の重要免震棟に入る時、汚染検査の場で、いきなり菅首相の怒声が聞こえた「なんで俺がここに来たと思ってるんだ!こんなことやってる時間なんかないんだ!」作業から帰ってきた作業員が大勢いるなかでフロア中に響く声だった。
会議室に入っても、「ベントをなんで早くやらないんだ」と武藤に迫り、何か答えても「そんなこと聞きに来たんじゃない!」と言い放った。吉田所長がベントを行うにも放射線量が高く作業が難航していることを説明した。
原子炉建屋に隣接する中央制御室(中操)の作業指示を待っている若い運転員たちから、
「ここにいる意味があるのか」と問われた時、当直長の伊沢は、
われわれが中操から退避するということは、もうこの発電所の地域、まわりのところをみんな見放すことになる・・だから・・俺たちは、ここを出るわけにはいかない・・・頼む・・・君たちを危険なところに行かせはしない。そういう状況になったら、所長がなんと言おうと、俺の権限で君たちを退避させる。それまでは・・・頼む。残ってくれ」そう頭を下げた。
平野、大友という当直長たちも、若い運転員たちに向って頭を下げた。


原子炉内に注入する真水が不足し、海水を入れるしかないのに、その作業をしていた吉田所長に、官邸がグジグジ言うからと、本店が海水注入中止を言ってきた。吉田所長は部下にこう指示した。
本店から海水注入の中止の命令が来るかもしれない。その時は、本店に(テレビ会議で)聞こえるように海水注入の中止命令を俺が出す。しかし、それを聞き入れる必要はない・・・そのまま海水注入をつづけろ
官邸の過剰介入だ。

東電の武黒フェローは、避難区域を決めた時の菅首相をこう言っている。
”どうすりゃいいんだ!””どうすんだ!”って言うわけです・・・説明すると、”どういう根拠なんだ!それで何かあっても大丈夫だと言えるのか”と散々、ギャアギャア言うわけです」

3月14日、三号機の水素爆発の後、二号機に格納容器爆発の危機が迫っていた。最悪の事態だった。
本当のプロであれば、たぶんみんな腰が抜けていいんじゃないかと思うんです

(吉田所長)

午後11時46分、2号機の格納容器圧力は設計値の二倍近い750キロパスカルに達していた。
吉田は、最悪の事態に備え、協力会社の人たちを帰らせた。

「本当にありがとうございました」協力会社の人たちに頭を下げた。

3月15日早朝、吉田は、ふいに立ち上がり、椅子と机の間のスペースに胡坐をかいて坐り込み、「ゆっくりと頭を垂れた・・吉田は目をつむったまま微動だにしなかった」その姿は、「最後の時」が来たことを周囲の人間に告げていた。

私はあの時、自分と一緒に”死んでくれる”人間の顔を思い浮かべていた
この時、官邸で「(原発からの)撤退問題」がもちあがっていた。
東電本社に菅首相が乗り込み、マスコミがいないことを確認してこう言ったのだ。
これをテレビ会議を通して、現地の人たちも聞いていた。
このままでは日本国は滅亡だ。撤退などあり得ない!命がけでやれ・・・逃げてみたって逃げきれないぞ!

「逃げる?いったい誰が逃げるというのか。(なに言ってんだ、こいつ)吉田とともに現場に残ることを心に決めている面々に、「逃げてみたって逃げきれないぞ」と一国の総理が言い放ったのである。」
60になる幹部連中は現地に行って死んだっていいんだ!俺も行く。社長も会長も覚悟を決めてやれ!

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2011.3.24 福島第一原発 三号機、四号機

6:00過ぎ、大きな衝撃音とともに二号機の格納容器が破壊された。この時、二号機は、この事故最大量の放射性物質を放出したのだった。
この最悪の事態に吉田は「退避命令」を出す。最低限必要なメンバーを残し、600人の人々を退避させた。
現地緊急対策本部(免震重要棟)には69人の「残るべきものが残った」。
フクシマ・フィフティ」である。
吉田所長は、最後に残ったメンバー(「死んでいい人間」)だけになった時、彼らにいった。
なんか・・・食べるか?

テレビや新聞で伝えられる情報には限りがあり、当時、現場で戦っていた人々のことはあまり知られてはいない。しかし、高い放射線量下で、地震津波、建屋の爆発にみまわれながら、自分たちを支援してくれるはずの政治家や本店からの理不尽な要請とも戦い、劣悪な環境のなかで、車から外したバッテリーをつないでモニターを監視するなど、自分たちの持ち場を離れず最後まで戦った人々こそ、その時、真にこの国に必要な人たちだった。

国の危機に直面して、冷静になるべき一国のリーダは、パニックに陥っていた。一国のリーダとして大切だったのは、吉田所長のような現場リーダたちを信じ、一つの局面に深入りせず、米国とタッグを組み、海外へ向けて日本の対応状況発信など、全体のコントロールをすることだった。

日本はこの事態に対処できない、と不信を強めたアメリカが、情報の一元化と調整を申し出て実現したのは、地震発生から一週間後のことである。
どんな教訓も、それに正面から向き合わない限り、教訓とはなり得ない。

その後、吉田所長は11月に食道癌の告知を受け現場から去った。
2012年2月に10時間の手術を行った。
しかし、7月に脳出血で倒れ現在療養中という。
無事の回復を願ってやまない。

【出典】
門田隆将 『死の淵を見た男』PHP

【参考】
船橋洋一 『カウントダウン・メルトダウン 上・下』 文藝春秋
朝日新聞特別報道部 『プロメテウスの罠1~3』 Gakken
河北新報社 『河北新報のいちばん長い日』 文藝春秋
麻生幾 『前へ!』 新潮社
児玉龍彦 『内部被曝の真実』 幻冬舎