遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

三年後の3.11

マニュアル通りなら民間に任せればすむ、
マニュアルに頼らず判断できる専門家が
気象庁にいないことこそ問題なのです
岡田弘 環境防災総合政策研究機構)

 

あれから、もう3年になる。
2月の雪がところどころに、日陰に凍ったまま少し残っている。
外はまだ冬の空気のままだ。

3月とはいえ、あの日もまだ、東北の地は雪の舞う冬だった。
2011年3月11日14時46分に地震波を計測してから、気象庁津波の高さ予測を14時50分に出した。「岩手3メートル、宮城6メートル、福島3メートル」

 

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(2011.3.11 名取市

 

その8分後の14時58分、岩手県釜石沖76キロ地点の水深1600メートルに設置された水圧計が、大きな津波を計測し始めていた。
沖合での津波の高さは、海底の水圧計や波浪計で計測する。
津波の高さを示す水圧計のグラフはみるみる上がり、15時には5メートルに達した。

沖合の津波は、沿岸に近づくほど大きくなる。
気象庁の計算によれば、この水圧計の地点の津波は沿岸で6倍以上になる。
すなわち、5×6=30メートルもの津波が沿岸を襲うことになる。
4分後、29キロ陸側の釜石沖47キロの水圧計も5メートルの津波を計測した。
報告は上げられたが、その情報が警報に生かされることはなかった。

気象庁津波の高さを主にマグニチュードから予測し、マニュアルでもそうなっていた。
15時31分、結局気象庁は、3県とも「10メートル以上」と高さ予想を修正した。
津波が襲ったあとだった。

あのときに水圧計を重視していたら・・・、死者不明者19000人のうち10000人が助かった
関係者の言葉である。

最初の3メートル、6メートルの予測を聞いた人々は、「大丈夫だろう」と思い、高台へ避難しなかった人たちが多かったのではないかといわれている。
事実、福島第一原発の建屋は標高10メートルの場所にあり、建屋まで津波は来ないと判断していたのだ。

津波警報の責任者は、3メートルの津波と思って逃げなかった人たちがいる、と問われ、
申し訳ないと思います、・・結果が間違っていたとしたらマニュアルが間違っていたということです」と答えている。

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ミケランジェロ 『ラケル』 ユリウス2世の墓碑のための彫刻 
1542~45年頃 サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会蔵

 

石巻大川小学校では、全校児童108人のうち74人が津波の犠牲となった。
一人の教師がすぐそばの山へ避難すべきと強く訴えたが、その日不在だった校長にかわって指揮をとっていた教頭は判断できなかった。
「山道は整備されていないから子供たちが避難するのは難しい」と判断したようだ。

2人の生徒は「このままでは死ぬ。すぐ避難すべきだ」と訴えたが、「静かに待っているように」と先生に言われ、結局その生徒も犠牲となった。校庭に集合し50分も待たされたあげく、よりにもよって川の近くの高台へ向けて移動し、多くの犠牲をだすことになった。

あらかじめ、どこに避難すべきか決まっていなかったとしか思えない。3年経った今
も尚、大川小学校についての最終報告書は出されていない。ここには、災害時の行動マニュアルすらなかったのだろう。ましてや、避難訓練もしていなかっただろう。死してなお、教師の責任は重いと思わざるを得ない。

いつの世も、情報は、その意味の重大さを知る者によってしか生かされることはない。情報がない時でも、生き延びる瀬戸際で、人は判断し、行動しなければならない。マニュアルなど役に立たないのだ。だから、危機の時には、「一人ででも、自分で判断し、安全な場所に逃げよ」と子供たちには教えておくしかないのかも知れない。

あれから3年、私たちはそれぞれに、どんな教訓を学んだだろう。
記憶は薄れ、風化し、歴史となってゆく。
しかし、地球のプレートが動くかぎり、1000年後には再び「3.11」はやってくる。