遥かなる「知」平線

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原爆投下 謎のコールサイン

(情報を)キャッチしたが処置なし、後の祭りとなる。
参謀本部(陸軍部)2部 堀栄三少佐の備忘録から)

 

8月が来るたび、日本では各地で戦没者の慰霊祭が行われる。
原爆が投下された8月6日に、平和記念式典が広島でも行われた。
この日行われる広島市長のメッセージは、世界に向かって発信される。
それは、誓いであり、祈りであり、警鐘である。

新しい戦争の事実が、今なお発掘されている。
当時を知る高齢の老人たちが証言し、残された資料がそれを裏付ける。
8月6日NHKスペシャルで、原爆投下の情報を陸軍参謀本部は知っていながら,
現地に伝えられなかった事実を放送していた。

 

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19540301ビキニ環礁Castle作戦Bravo実験

 

終戦の前、陸軍特殊情報部は、マリアナ諸島からB29が発信するモールス信号を傍受していた。それは暗号化されていたが、一部のコールサインが判明していた。サイパンからはV400代の数字、グアムからはV500代の数字、テニアンからはV700代の英数字番号と決まっていた。

これらが発信されれば、日本の空襲へ向かうB29の編隊がどの方面に向かうか予測できたため傍受後、参謀本部へ伝えられた。

昭和20年6月、これらのコールサインとは違う謎のコールサインテニアンから発信された。特殊情報部はすぐ「おかしい」と気付いた。
目的は何か、以降テニアンを注視するようになった。

テニアン、旧ノースフィールド飛行場には、特別部隊が集結していた。
第509混成軍団のラッセル・ガッケンバック氏の証言によれば、この部隊は10数機のB29で編成され、他の部隊との接触は禁止、兵士は監視下に置かれたという。周辺の小島を使ったピンポイントの爆撃訓練が行われた。

これら特殊情報部の全情報を知る人物がいた。特殊情報部が属する参謀本部2部の堀栄三少佐である。戦後に残った肉声テープによれば、V600代のコールサインを追いかけていたが、それが原爆搭載の部隊だとはわからなかったという。

軍の上層部は昭和18年春、アメリカの原爆開発計画をつかんでいた。それが相当進んでおり、戦争の死命を制するかも知れぬと、航空本部主体で、原爆開発を促進せよと仁科博士を中心とした研究グループに開発を急がせた。

しかし昭和20年6月、日本は原爆開発を断念した。資材不足が表向きの理由だった。当時の資料にはアメリカもできなかったウラン分離は不可能と書かれている。アメリカはできない、と決めつけたのである。

その後、アメリカはニューメキシコ州で原爆実験に成功した。日本では誰もそれが原爆であるとは想像もしなかった。しかし、誰も気づかなかったはずはないという。この事実にだれも目を向けようとしなかったのである。

8月6日午前3時、硫黄島上空からワシントンへ向けたV600代のコールサインを傍受した。「我ら目標に進行中」暗号化されていないエノラゲイからの無線電話だった。

7:20 一機のB29が豊後水道から広島上空へ侵入した。そしてV675のコールサインを発信した。この機は気象偵察機と判断され、それが特殊なコールサインを発信している。これはただ事ではないと参謀本部へ伝えられた。しかし、広島へは伝えられず、空襲警報は発せられなかった。

8:15 原爆は投下された。
参謀本部上層部へ伝えられながら、その情報は活かされなかったと、情報部は悔しがった。貴重な情報は使われなかったのである。

8月7日、広島壊滅を陸軍は原爆と認めなかった。「普通の大型爆弾と思われる」と言い、広島の惨状を非常に小さく見せようとしていた。しかし、参謀本部は、内部では原爆であったことを認めていたのである。

8月8日、陸軍特殊情報部を「V600代のコールサインが、原爆を搭載したB29のものだと突きとめた」として表彰していたというのだ。
「こんどは、全部追跡して撃滅する。ご苦労であった」と。

8月9日未明、テニアン島からV675のコールサインを傍受した。
長崎に原爆が投下される数時間前である。それは参謀本部に伝えられていた。

その日朝、戦争指導者会議が開かれていた。ポツダム宣言を受諾するか否か。

受諾した場合、天皇はどうなるのか、自分たちは処罰されるのか。
陸軍の梅津参謀総長は、「アメリカが続けて原爆をもちうるか疑問である」と発言したとされる。

9:00 原爆を搭載したB29ボックスカーは九州に接近していた。
その会議の最中に、空襲警報が発せられないまま、長崎に原爆は投下された。

唯一、B29が飛行する高度で迎撃できる大村飛行場の紫電改パイロットには、出撃命令は出されなかった。今回の調査で、5時間前に情報が把握されていたと知ったその高齢の元パイロットは、何故出撃命令を出さなかったのかと悔しがった。
こんなことをしていたら、また起きるのではないか、と。

8月11日、終戦を前に、特殊情報部の書類を全て焼却せよと命令が下った。
灰を粉にせよ、と。終戦の日まで機密文書を燃やし続けたという。
軍がつかんでいた事実は無かったことにされたのである。

情報をつかんでいながら、空襲警報すら出すことも判断できなかった指導者たち。広島、長崎でその年20万人の日本人の命が失われたのである。
この事実は、国の指導者たちの責任の重さを今に伝える。

しかしこれは、66年前の話しであるが、今の私たちの国の為政者たちの話しでもある。「こんなことをしていれば、またこうしたことは起こる」元紫電改パイロットの声が忘れられない。
長崎の原爆投下の時の、堀栄三少佐の備忘録には、ただこう書かれている。
「(情報を)キャッチしたが処置なし、後の祭りとなる」