遥かなる「知」平線

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ブルゴワンの呪い メアリー・スチュアート

陰謀を企み、
わたしを断頭台に送ったすべての人を、
わたしは許します
(メアリー・スチュアート

 

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メアリー・スチュアート スコットランド女王(在位;1542-1567)

 

イングランド女王エリザベス1世の祖父、ヘンリー7世を曾祖父に持つスコットランド女王メアリー・スチュアートは、19年の間イングランドに囚われ、エリザベス1世の廃位に加担したとして処刑された。彼女の最期の場面をご紹介しましょう。

 

1587年2月8日早朝、処刑場で、250人近くの貴族、騎士、侍従が立ち並ぶなか、ロバート・ビールが処刑令状を読み上げた。読み終わって、すべての準備を終えた時、「エリザベス女王万歳!」と歓声が上がったが、それに応じる者はなかた。
メアリーは十字を切ると、立ち上がり、いつになくやさしい声で話しかけた。

 

「わたしは女王になるべくして生まれ、法律によって裁かれることのない、主権を有する女王です。イングランド女王とは近い親戚であり、イングランド女王の正当な後継者です。
19年もの長い間、この国で囚われの身で過ごし、誰もわたしに与える権利のないあまたの苦難と不幸を受けてきました。そればかりか、今、わたしは処刑されようとしています。

ですから、みなさん、わたしがカトリック教徒として死ぬのを見届けて下さい。
神の栄光のために、わたしに死をお与えくださった神に感謝いたします。

きょうまで、一日といえども、公的にも私的にも、エリザベス女王の死を謀ったり、それに同意したり、望んだり、または、逆らうようなことは何もしていません。・・・・
ついに、わたしの敵は自分たちの目的、すなわち、わたしを断頭台に送る目的を達成したのです。

ですが、陰謀を企み、わたしを断頭台に送ったすべての人を、わたしは許します。
わたしが死んだあと、陰謀を仕組んだのは誰か、明らかになるでしょう。

でもわたしは誰も非難せずに死にます。神が、わたしの言葉をお聞きになって、
わたしに代わって復讐なさるのを恐れるからです」

 

こうして、44歳の生涯を閉じた。

5か月もの間、防腐処置され鉛の棺に納められたメアリーの遺体は、ピータバラにある大聖堂、ヘンリー8世の妃キャサリン・オブ・アラゴンの墓の反対側に葬られるまで、フォザリンゲイ城に置かれたままだった。

(注)後にメアリーの息子のイングランド国王ジェームズ1世によって、遺体はウェストミンスター寺院に移された。現イギリス女王エリザベス2世は、ジェームズ1世から数えて13代目にあたる。

 

メアリーに最後まで付き従った召使たちも、葬儀が終わってフォザリンゲイ城に戻ると、「きょうから自由だから、どこへなりと好きな所へ行くがいい」と言われた。

召使たちは1587年8月13日月曜日、めいめい自分の物を持って城を出た。
ブルゴワンが最後だった。跳ね橋の外れよりさらに遠くに行ってから、城を振り返った。

彼はキリスト教徒だったが、自分自身が受けた苦しみのためではなく、メアリー女王が受けた苦しみのためにエリザベスを許すことができなかった。

ブルゴワンはメアリー女王を処刑したフォザリンゲイ城壁のほうを向き、両手を広げ、辺りを払う大音声で、ダビデの言葉を呼ばった。

血を流したあなたの召使たちの恨みを晴らさせたまえ、おお、神よ、照覧あれ!

年老いた「ブルゴワンの呪い」は聞き届けられ、歴史はエリザベスの罪を厳然と語り継いでいる。

【出典】アレクサンドル・デュマ 『メアリー・スチュアート』 作品社 田房直子訳 2008年

メアリー・スチュアート小史】
メアリー・スチュアート(1542年12月8日-1587年2月8日)、
スコットランド女王(在位;1542年12月14日-1567年7月24日)。

メアリーは、かのエリザベス1世の祖父ヘンリー7世を曾祖父にもち父王ジェームズ5世が30歳の若さで急逝して、生まれてわずか6日後にスコットランド女王になった。

1547年イングランドのサマセット公エドワード・シーモアの攻撃を受け敗れると、
1548年フランスのアンリ2世の元へ逃れる(5歳)。
その後、フランス宮廷で育ち、1558年アンリ2世の皇太子フランソワ(後のフランソワ2世)と結婚する(15歳)。

1560年12月5日、フランソワ2世が、在位2年で亡くなり(16歳)、子のなかったメアリは、1561年8月にスコットランドに帰国した(19歳)。
1565年7月、メアリは、スチュアート家傍系のヘンリー・スチュアート(ダーンリー卿)と再婚、後のスコットランド王ジェームズ6世(在位;1567年ー1625年)、エリザベス1世亡き後のイングランド国王ジェームズ1世(在位;1603年ー1625年)でもある息子を生む。

しかし、1567年2月ダーンリー卿が暗殺された後、5月ボスウェル伯と結婚した(24歳)。
ダーンリー卿殺害の首謀者は、ボスウェル伯、メアリーは共謀者と見られ、カトリックプロテスタント双方がこの結婚に反対した。まもなく、反ボスウェル派の貴族たちが軍を起こし、6月反乱軍に投降し、7月廃位された。

1568年幽閉されていたロッホリ―ヴン城を脱走し軍を起こすが敗れ、イングランドのエリザベス1世の元へ逃れる(25歳)。その後、囚われの身となりイングランド各地を転々とする。

たびたび、エリザベス1世は庶子であることを楯に、イングランドの正当な王位継承者であることを主張していた。エリザベスの廃位の陰謀(1570年リドルフィ事件、1586年バビントン事件)に加担したとして有罪・死刑を言い渡された。エリザベス1世はその死刑には躊躇ったという。

1587年2月8日、フォザリンゲイ城にて処刑された(44歳)。
最後まで、カトリック教徒、スコットランド女王、フランス国王未亡人、イングランドの王位継承者を唱えて処刑された。
スペイン王フェリペ2世は、無敵艦隊イングランドに派遣し、アルマダの海戦(1588年)につながる。