遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

塩野七生 皇帝フリードリッヒ二世の生涯

すべては、あるがままに見たままに書くこと。
なぜなら、この方針で一貫することによってのみ、書物から得た知識と経験してみて初めて納得がいった知識の統合という、今に至るまで誰一人試みなかった科学への道が開けてくると信じるからである。
(フリードリッヒ 『鷹狩りの書』)

情報とは、その重要性を理解できた者にしか、正しく伝わらない。
塩野七生 『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』 新潮社)

 


類い稀な知性で劇的な人生を生ききった神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ二世(1194年12月26日ー1250年11月25日)の人生を、読者は驚異の目を持って目撃するだろう。
これは中世の話であると同時に、私たちの話でもある。

 

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フリードリッヒ作 カステル・デル・モンテ世界遺産

フリードリッヒは、3歳で父である神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ6世を、4歳で母コスタンツァを失い孤児となった。
ローマ法王インノケンティウス3世の後ろ立てを得て、ドイツを放棄することを条件に、3歳でシチリア南イタリアプーリアカプアの公爵となった。母コスタンツァは、ローマ法王を息子の後見人にするには、「シチリア王国は法王領」という条件を飲むしかなかった。

母の死後、法王はシチリアの統治には無関心だったようで、フリードリッヒの4歳~14歳の10年間、シチリア無政府状態だった。
ラテン語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ギリシャ語、アラビア語に通じ、独学・独歩の人であった。14歳で勝手に成人宣言をし、問題は表面化しなかったものの法王推挙のパレルモ大司教の人選を拒否する。

ザクセン公オットーのドイツ支配に反対する反オットー派から、皇帝にフリードリッヒを選んだからドイツに来られよと請われ、いまだシチリア王国の状態が盤石とはいえないのに、彼はドイツ行を決意する。

ザクセン公オットー30歳、法王インノケンティウス3世52歳、英国王ジョン45歳、仏王フィリップ47歳の西欧世界に、フリードリッヒは17歳で起(た)ったのだ。

ドイツ諸侯は、第3次十字軍を率いオリエントで死んだフリードリッヒ1世(赤ひげ)を祖父にもつこの少年に魅了され、以降、彼を支持するようになる。
20歳でアーヘン、25歳でローマで、神聖ローマ帝国皇帝として戴冠する。

1224年、ヨーロッパ初の国立大学となるナポリ学問所ナポリ大学;正式名称はフェデリーコ二世大学)(注)をスタートさせた。教授陣は聖職者を排し俗界から選び、授業料無料、奨学金の制度化、世俗人のための大学として教養全般(リベラル・アーツ)を教え、「知識と教育の源泉にもどって」をモットーとする大学であった。
ルネサンスの250年前の「ルネサンス宣言」であった。
(注)フェデリーコ;フリードリッヒのイタリア語読み。

1227年3月にグレゴリウス9世(57歳)が法王になると、教会とフリードリッヒとの関係は悪化していく。
32歳のフリードリッヒは、8月に十字軍を出発させるが、兵士の間に疫病が発生し引き返す。一部の部隊は先行させるのだが、軍を返したことで第一回目の破門を受ける。翌年3月、最初の破門が解けないというのに2回目の破門を受ける。理由は法王への「恭順の意の欠如」。

1228年6月、破門されたまま第6次十字軍を出発させる。翌年2月にイェルサレムを条件付きとはいえ、一度も戦闘せずに交渉によって奪還する。以後20年間の平和が成り、キリスト教徒とイスラム教徒の共生を目指した成果を得るが、「キリスト教徒の血を流さず、交渉で」というのは、原理主義者の法王にとっては許されない裏切りだったのだ。

1231年、「メルフィ憲章」なるものを制定する。
皇帝のもとに司法、行政など7人の大臣、会計検査院などを置き、国の統治を定めた。封建社会から近代国家への移行に必要な全ての事項が法律に列記された。
法治国家を目指し、「中央集権的君主制国家」たらんとしたのだ。

しかしローマ法王は、これをキリスト教世界の秩序の破壊とし、フリードリッヒの行動を牽制すべく、ガリレオを異端としたかの悪名高き「異端裁判所」を設置する。
(2000年にヨハネ・パウロ2世がこの異端裁判所を過ちとして謝罪した)

ロンバルディア同盟の各都市内での法王派皇帝派の対立は、フリードリッヒがいう「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」(キリスト)の「政教分離」か、「皇帝、王、諸公という世俗の統治者の首をすげ替える権利が法王にあるか否かをめぐる闘争であった」のだ。

1239年3月、フリードリッヒが3回目の破門を受ける。これも理由は「法王への恭順の欠如」他。
皇帝を異端とするための公会議も、メロリアの海戦公会議に出席する聖職者400人が捕えられて開催できず、ローマに迫るフリードリッヒの軍に追いつめられたグレゴリウス9世は死ぬ。

後を継いだインノケンティウス4世はフランスのリヨンへ逃げ、1245年6月のリヨン公会議でフリードリッヒ欠席のまま、異端裁判で彼を異端とする。

フリードリッヒは諸侯に手紙を送った。
法王のこの処置はあなた方にも起こると思われよ、この裁判はローマ法王とは誰がその座にあっても、世俗の権威権力に対して介入してくる人種であることを実証した、と。

正面からフリードリッヒと戦ったのでは勝ち目がない法王は、数々の陰謀を企てる。フリードリッヒは、受けて立つも、息子や側近を失っていく。しかし大多数の諸侯からは支持された。

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1250年11月25日、カステル・フィオレンティーという村で55歳の生涯を終える。キリスト教徒として破門されたまま、40年来彼に着き従った、これも破門されたパレルモ大司教べラルドに看取られて。

フィオレンティーノにある石碑に、マシュー・パリスという修道士による一文が彫られているという。

世俗の君主の中では最も偉大な統治者であり、世界の驚異であり、多くの面ですばらしくも新しいことを成した改革者であった

以後、この「世界の驚異(STVPOR MVNDI)」がフリードリッヒの代名詞になった。「ストゥポール・ムンディ」というだけで、ヨーロッパの教養人には誰のことか分かるという。

破門されても法王に許しなど請うことなく、破門されながらイェルサレムを無血で奪還し、イスラム教徒との平和を構築して共生の道をさぐり、シチリア王国では「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」と「政教分離」の法治国家を作った。

法王側の陰謀を正面から受け止め、ロンバルディア同盟に苦戦しつつも諸公を味方につけて、堂々とヨーロッパの主人公であり続けたこの人から、読者は感動と勇気をもらうだろう。