遥かなる「知」平線

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フィレンツェ 祖国の父コシモ

レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯 (2)

わたしは、この都市(まち)の気分を知っている。
われわれメディチが追い出されるまでに、50年とは要しないだろう。
だが、モノは残る。
(コシモ・デ・メディチ

 

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フィレンツェは「花の都」と呼ばれている。
もともとこの街を作ったのは、あのユリウス・カエサルである。
それ以前スッラが兵士たちを入植させたが定着せず、カエサルが入植者へ土地を貸与する法律などを作って都市化した。

フィレンツェの誕生は紀元前59年。
ローマ時代、その中心地で神々の助力を願う犠牲式が行われたのが、春に祝われた「花の祝典(ludi florales)」という祭日であったことから、フィレンツェ(Firenze)の古語であるフロレンティア(Florentia)が由来であった。

その後、この街を美しく変えたハドリアヌスの時代から1000年以上が過ぎて、崩れ落ちたローマ時代の都市の上に中世の塔が乱立する中世そのものの街となっていたが、14世紀初めにかけてアーノルフォ・ディ・カンピオがこの街を作り変えていく。

フィレンツェをどの都市よりも美しく活気にあふれた、しかも整然とした都市にした最初の人こそ、職工の親方にすぎなかったアーノルフォ・ディ・カンピオであった。

フィレンツェでは、街の有力者が権力闘争を繰り広げ、反対派を追放しては街の支配権をにぎることを繰り返してきた。しかし1434年、フィレンツェはようやくコシモ・デ・メディチによる僭主政が確立し、国内が統一された。以降60年に渡って、フィレンツェにおけるルネサンスは最盛期を迎えることになる。

 

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コシモ・デ・メディチ 1389-1464

 

追放先から戻ったコシモは、これまでのように旧体制派を徹底的に弾圧することはなかった。国政の担当者も広く各階層から求め能力主義による登用を行った。

彼自身が高額所得者であったにもかかわらず、ヨーロッパで初めて累進課税制度まで考え出す。
また、都市と農村の経済力の格差の縮小を目的に農業の振興を図る。都市と農村の健全な共存を目指して、アルノ河を荷を積んだ船が航行できるようインフラ整備にも務める。

ヨーロッパ各地に支店を持つ金融業によってメディチ家の財力は強化され、同時にフィレンツェ共和国全体の経済力も増強されていった。

彼は国内だけでなく対外的にも平和確立に貢献する。
1453年に地中海世界の一大事件であったコンスタンティノーブルの陥落を機に、ミラノ公国、べネツィア共和国、フィレンツェ共和国ローマ法王庁ナポリ王国との間で、争いはやめ講和を提唱する。あるいはトルコとも良好な関係を築いていく。

コシモ自身は、深い学識の持ち主でもなかったし、芸術を深く理解した人でもなかったというが、学問芸術の最大のパトロンとなった。これを通してフィレンツェを一大文化国家にしていく。政治、経済だけでは諸国のリーダにはなれないことを知っていたのかもしれない。

古典学者のマルシリオ・フィチーノを学長にして「アカデミア・プラトニカ(プラトン・アカデミー)」を創設する。古代アテネプラトンが創設した「アカデミア」を再興したのである。

アカデミアはローマ時代になっても最高学府であり続けるが、キリスト教に害をもたらすことを理由に東ローマ皇帝によって廃校にされる6世紀まで続いた。
それをコシモは1000年後に再興したのである。

大学を終えた人の研究機関という趣のあったこの「アカデミア・プラトニカ」にはイタリア中から人が集まったが、これが契機となってローマやナポリにも「アカデミア」が生まれたのである。古代はこのようにして、イタリアルネサンスの中に復興した。

コシモは、1464年75歳で死んだ。
君主の肩書を持たず一市民で通した。葬式も、外国からの弔問者一人いない一市民のものであった。

しかし、フィレンツェの議会は彼に「祖国の父(Pater patriae)」の称号を贈る。
それは、ユリウス・カエサル以後のローマ皇帝たちが、ローマ元老院から贈られた称号だった。
中世・ルネサンスを通じてこの称号を贈られた人は、コシモ一人しかいない。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、コシモが死んだ翌年(1465年)頃、こうしたフィレンツェへと乗り出していくのである。自分がイタリア・ルネサンスの主役の一人になろうとは夢にも思わなかったに違いない。(続)

【出典】塩野七生 『ルネサンスとは何であったのか』 新潮文庫