遥かなる「知」平線

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ダ・ヴィンチ 聖ヒエロニムス

レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯 (9)

なぜおまえはそんなに苦しむのか。
人は偉大になればなるほど
苦しみを受けとめる器が大きくなるものだ。
ダ・ヴィンチ


フィレンツェで独立してからのダ・ヴィンチは、あまり恵まれていたとはいえない。
1476年、ロレンツォ・デ・メディチの母親の出身一族であるトルナブオーニ家に関わる人物を含む同性愛疑惑スキャンダルに巻き込まれたり、1478年にフィレンツェ政府から注文された「聖ベルナルドゥス祭壇画」を請け負いながらも完成できなかった。

また、1481年ロレンツォは、ローマ教皇からシスティーナ礼拝堂の壁の装飾を描くのに、フィレンツェの選りすぐりの画家を選んで欲しいと相談された。教皇庁との関係を強化したかったロレンツォは、フィレンツェを代表する一流の画家を選んだ。
ボッテチェルリギルランダイオペルジーコジモ・ロッセリらだった。ダ・ヴィンチは選ばれなかった。

ダ・ヴィンチの落胆は想像できるが、彼に対する評価は芳しいものではなかったようだ。なにせ請け負った仕事も完成させることが出来ないのだから、教皇庁との関係を考えればロレンツォとてダ・ヴィンチを選ぶことはできなかっただろう。

ダ・ヴィンチにとって、作品を完成させること自体、あまり興味がなかったのではないかと考えるしかない。それは己の創造の基準と、世間のそれとは甚だしい乖離があったのだろう。
そんな第一次フィレンツェ時代の最後に、『東方三博士の礼拝』とともに描かれたのが『聖ヒエロニムス』である。

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聖ヒエロニムス 1481年頃 ヴァチカン美術館

聖ヒエロニムスは、4世紀のギリシャ人学者で、当時のキリスト教父たちのなかでももっとも学識豊かな人であった。聖書のラテン語訳(『ウルガタ訳』聖書)でも知られる。374年~378年にかけてシリアの沙漠で隠修士として過ごした。

絵に描かれているのは、悔悛するヒエロニムスが石を右手に持って我が身を打っている姿である。その足もとには、聖者がその足の棘を抜いてやったことから、その後なついたライオンがヒエロニムスを見あげている。

落ちくぼんだ顔や腕、肩の筋肉、露わになった骨格、なのにここに表現された圧倒的迫力はどうだろう。荒々しい自然のなかで断食と苦行でやつれながら、その身から強靭な意志力を感じさせる。

こうした絵を描かせたのも、ダ・ヴィンチの置かれた状況と無縁ではないと思わせる。
美の創造と無縁の、画布に収まり切れないエネルギーの塊。
彼の作品のなかで、おそらく最もダ・ヴィンチの本質的な「叫び」がそこに表現されている気がしてならない。

絵を完成させることなく、この後1481年後半から1482年前半までには新天地ミラノへ赴いたと思われる。
その心中は、失意だったか、希望だったか。

(つづく)