第二のモナ・リザ(2)
「なあ、ユリアン、ものごとって奴は、
最初のうちはなかなかうまく運ばないものでな・・・」
「時間がたつと?」
「だいたいは、もっとひどくなる」
(田中芳樹 『銀河英雄伝説』 徳間書店)
前回に引き続き、『第二のモナ・リザ』に関係する人々の歴史的な動向を述べて見ましょう。前回の歴史資料と、この人々の動きから、『第二のモナ・リザ』および現在ルーヴル美術館に伝わる『モナ・リザ』について考えてみることにします。
今回は、第二回目の記事として、モナ・リザをめぐる人々の歴史的な動向の記事になります。
【エリザべッタ(リザ)・デル・ジョコンド】
1479年メディチ宮殿裏のジノ-リ通りに生まれた。父はアントニオ・マリーア・ディ・ノルド・ゲラルディー二といいメディチ派の政治家で、その政治活動で家運が傾いた。
リザが17歳のとき、絹織物で財を成した36歳のフランチェスコ・デ・バルトロメオ・ディ・ザノービ・デル・ジョコンドに後添えとして嫁ぎ五子をもうけた。
1542年7月に63歳で亡くなった。
【ジュリア-ノ・デ・メディチ】
豪華王ロレンツォの三男で、1479年生まれ。前年パッツィ家の陰謀事件でロレンツォの弟ジュリア-ノが暗殺され、弟を偲んで三男に同じ名前をつけた。詩人ポリツィア-ノを家庭教師として育ち、温和な性格で教養豊かな宮廷人として育った。
ジュリア-ノ・デ・メディチ
1494年フィレンツェからメディチ家が追放されたとき、ジュリア-ノ15歳。
マントヴァ、フェッラーラ、ウルビーノ公国へと逃れるが、1502年6月チェーザレ・ボルジアにウルビーノ公国が占領され軟禁状態となる。
1513年2月、教皇ユリウス2世が死ぬと、兄ジョバンニ・デ・メディチがローマ教皇の座につく(レオ10世)。その兄の下で、ジュリア-ノは教皇軍司令官になる。
ラファエロ 『レオ10世』 フィレンツェ、ウフィッツィ美術館
(レオ10世の右側の人物がジュリア-ノ)
1515年1月ルイ12世を継いだフランソワ1世が、ミラノ公国の領有権を主張。
レオ10世との和平会談で、ミラノはフランソワ1世に、フィレンツェ支配はメディチ家に、そしてジュリア-ノと仏王の若い叔母との結婚が決められたが、ジュリア-ノは1516年3月38歳で没した。
【ダ・ヴィンチの動向】
1499年にルイ12世がミラノ公国を侵略したとき、ダ・ヴィンチはマントヴァ公国へ逃れ、ヴェネツィアを経てフィレンツェにいた(1500年3月)。
ボルジア軍がフィレンツェに触手を伸ばす前に、フィレンツェはマキャベリを派遣し、フィレンツェは正式にボルジアへの使節団を派遣すること、ダ・ヴィンチをボルジアの「建築技術総監督」とすることに合意した。
1502年7月、その使節団にダ・ヴィンチが加わっていた時に、軟禁状態のジュリア-ノがダ・ヴィンチを訪ねてきた。ジュリア-ノ23歳。ダ・ヴィンチ50歳。
1503年ボルジアがローマへ凱旋したので、役目を終えたダヴィンチはフィレンツェへ還った(51歳)。
それから「モナ・リザ」をサンタ・マリア・ノヴェッラ教会「教皇の間」で描き始めた。
1506年ルイ12世からミラノへ来るように言われ、ダ・ヴィンチは再びミラノへ行くが、
1513年ジュリア-ノの兄ジョバンニが教皇になるや、ジュリア-ノからローマ・ヴァチカンへ招かれる。
しかし、1516年ジュリア-ノが亡くなると、フランソワ1世の招きでダ・ヴィンチの最後の地となるフランス・アンボワ―ス城へ赴く。(64歳)
関係者の動向は、ざっとこんなところになります。前回の記事と今回の記事の内容を合わせて、『第二のモナ・リザ』をどのように考えたらよいか述べてみたいと思います。(続)