遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

トスカーナに生まれし天才

レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯 (1)

科学とは、現在または過去において起こりうる事柄を観察することである。
先見とは、ゆっくりと変化していく事柄の知識である。
ダ・ヴィンチ

 

f:id:monmocafe:20190514212657j:plain

エトルリアの古都ヴォルテッラの廃墟とトスカーナの風景

 

1452年4月15日(土)午後10時から11時にかけて、イタリア・トスカーナの地に一人の天才が生を受けた。レオナルド・ダ・ヴィンチである。

レオナルドは、公証人セル・ピエロ・ダ・ヴィンチの私生児としてヴィンチ村で生まれる。母親は農家の娘カテリーナ。洗礼には教父と教母ら総勢10人も立ち会ったことが、父方の祖父アントニオの記録にあることから、彼は祝福されて生まれてきたことがうかがえる。

父親の「セル」は尊称で、社会的な地位の高さを示しているという。代々、契約書や証文、遺言書などの法的文書を作成する公証人をしてきた。

子供の頃、彼が父親の屋敷で育ったのか、母親と一緒だったのか分かっていないが、彼を特にかわいがったのは、子供のいなかった15歳年上の叔父フランチェスコだった。祖父アントニオの所得申告書に扶養家族としている記録があるので、レオナルドは祖父や父方の家族の中で育ったと思われる。

父ピエロは、レオナルドが生まれて8カ月後にフィレンツェの有力な公証人の娘アルビエラと結婚し、カテリーナもレオナルドを生んで一年後、石灰業者アッカタブリガと結婚、カンポ・ゼッピという所に住んだ。ヴィンチ家の家からは近くだったから母親との行き来があったかも知れない。

祖父アントニオと同様、地方の紳士として地所の収入で暮らしていた自由人の叔父フランチェスコが、レオナルドに大きな影響を与えたと思われる。死後、すべての不動産をレオナルドに譲っている。

父や母の家族との関係はあまり知られていないが、人格が形成される時期にトスカーナの田園地帯をフランチェスコと過ごした日々は、ダ・ヴィンチの中に、自然と世界への尽きせぬ好奇心を生むことになった。

私生児が故に、専門職への道が閉ざされ、当時知識人には必須のラテン語を学ぶ学校に入れなかった。彼がどのような教育を受けたか分かっていない。親方に弟子入りする準備に、小学校で読み書き、9~10歳で商売に必要な算術を学び、12~13歳で商店で見習いを始めたり、職人の工房に入ったりするのが一般的だったから、レオナルドもそうしたごく普通の教育を受けたのではないかと思われる。

妻と死別した父ピエロは、二人目の妻とフィレンツェで住むようになるが、レオナルドも一緒に暮らすことになる。1465年頃というからレオナルドが13歳の頃である。
ここフィレンツェで、レオナルドは彼の才能を育み開花させていくのである。

フィレンツェの栄華の基礎を作ったコジモ・デ・メディチが1464年に死去し、時あたかもフィレンツェは文化的には爛熟し、政治的には動乱の時代へと変って行く時代に、レオナルドは生きて行くことになる。(続)

 

f:id:monmocafe:20190514213033j:plain

ダ・ヴィンチ トスカーナと周辺地域の地形図 1502-03年