遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

ダ・ヴィンチ チェチリア・ガッレラーニの肖像

「絵画」は一瞬のうちに、
視力をとおしてものの本質を君に示す。
(ダ・ヴィンチ

 

7月17日に書いた記事、

monmocafe.hatenablog.com

の中で私は、
肖像画においてダ・ヴィンチは、いきなり真正面から対象の本質を摘出する」と臆面もなく書いた。

実は、その頃、『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』を読んでいた。そして、サルバトール・ムンディの記事を書いたあとで、彼の手記の『「絵の本」から』という部分で、冒頭の言葉に出くわす。

「絵画」は一瞬のうちに、視力をとおしてものの本質を君に示す
これを読んだ時、あまりの符合に正直驚いてしまった。

ダ・ヴィンチの傑作とされる『モナ・リザ』は、現在ルーヴル美術館に展示されているが、あまりに有名すぎて、いつも人だかりがしている。

しかし、敢えて異を唱えるつもりはないが、個人的には『チェチリア・ガッレラーニの肖像(白貂を抱く貴婦人)』が、私のベスト ダ・ヴィンチだ。
ダ・ヴィンチが、ミラノ時代、1484年頃に描いたとされる絵だ。

 

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ダ・ヴィンチ 『チェチリア・ガッレラーニの肖像(白貂を抱く貴婦人)』
クラクフ、チェルトリスキ美術館 1484年頃

 

チェチリアは、ミラノを支配していたルドヴィーコスフォルツァの愛妾であった。教養があり、知性に溢れた女性だったようで、ダ・ヴィンチが、宮廷のイベントで演奏したリラ(竪琴)にいたく感動し、彼からリラの手ほどきを受けた。

これがきっかけで、彼に自分の肖像画を描いてくれるよう依頼したという。
ダ・ヴィンチは、リラの名手にして、歌も一流だった)

『サルバトール・ムンディ』は、彼の工房の弟子が描いたのではないかと言う記事も見たし、ヴァザーリの『芸術家列伝』に言及されていないこともあってか、『チェチリア』もダ・ヴィンチの作ではないのでは、と言われた。

この絵を見た当時の宮廷詩人べリンチオーニの詩や、マントヴァイザベッラ・デステとチェチリアが交わした往復書簡から、ダ・ヴィンチの絵であることは明らかとされている。

自分の肖像画を名のある画家に書いてもらおうと思ったイザべッラは、この絵の評判を聞いて、あとで返すから貸してくれと手紙に書き、馬車で持ってこさせた。

チェチリアには、大切な絵だったろうが、教養が高く、趣味も豊かで、ヨーロッパ上流社会の尊敬を集める、今を時めくイザべッラの要請を断ることなどできなかったろう。なにせ相手は、一国の王や教皇からさえ、一目置かれる存在なのである。

「あなたさまのお望みなら、わたくしにできるどんなことでもいたしましょう」と書かなくてはならなかったのだ。

しかし、その絵は証拠があるからダ・ヴィンチなのではない。
証拠は、マーケットの市場価値を決めるために必要だろうが、それと無縁な私には『絵』に向き合わせてくれるだけでいい。

描かれた人物の「本質」を摘出しているか否か。

光を研究し、自然を観察し、遠近法を極め、黄金律を我が技術となし、人物の本質を画布上に立ち上げる。

フランス王ルイ12世が、ミラノに進出した時、ダ・ヴィンチマントヴァに一時避難した。その時、イザベッラは、肖像画を描いてくれと依頼し、ダ・ヴィンチはスケッチを3枚書いた。避難生活のお礼の意味もあったかも知れない。
しかし、その後、再三の要請に関わらず、ダ・ヴィンチはイザべッラの絵を描くことはなかった。

ここからは想像なのだが、押しが強く、ルネッサンス時代最も輝いていたイザべッラのことを、ダ・ヴィンチはあまり好ましく思っていなかったのではないか。
だから、ダ・ヴィンチは、イザベッラの「本質」を描きたいとは思わなかった。
彼は、肖像画を完成してくれというイザべッラの要請に、手紙一つ書かなかった。

かくして、チェチリアの絵は、後年になって一部背景が黒く塗り直された形跡があるとはいえ、素晴らしい形で今日の私たちに伝えられているが、ダ・ヴィンチの手になるイザべッラの絵は、1枚がデッサンのままルーヴル美術館に残されているだけである。