遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

旅するチェチリア

レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯(16)

地獄の最も暗きところは
倫理の危機にあっても
中立を標榜する者たちのために
用意されている。
(ダンテ 『神曲』)

脳が対処しきれないほどの
多大なストレスをもたらす事実にぶつかると、
決まってその事実を否定する。
ダン・ブラウン 『インフェルノ』 角川書店
(注)精神医学では、これを「否認」と呼ぶ

 

ミラノ宮廷での軍事技術者、これがダ・ヴィンチの夢だったが、なかなかその足がかりができなかったようだ。ミラノに工房をもちながら、宮廷イベントのプロデューサーのようなことをしていたのだろう。

宮廷との強い関係を示すのはこの『チェチリア・ガッレラーニの肖像』が最初の作品になる。この肖像画については、既に書いているので、ここでは内容の重複を避けて書いてみよう。

monmocafe.hatenablog.com

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ダ・ヴィンチ 『チェチリア・ガッレラーニの肖像(白貂を抱く貴婦人)』
クラクフ チェルトリスキ美術館(1484年頃、または1490年頃)

チェチリアは1473年、フィレンツェルッカの大使をした役人の父ファツィオと法学者の娘である母マルゲリータ・ブスティの間に生れた。
父は7歳の時に他界しているから、それほど豊かな家に育ったわけではないようだ。
幼いときに作られたジョヴァンニ・ステーファノ・ヴィスコンティとの婚姻契約書が1487年に解消されていることから、14歳のときにルドヴィーコと関係ができたと考えられる。

当時の領主たちの婚姻は、純粋に政略的なものだったから、1491年1月にルドヴィーコフェラーラ公エルコレ・デスデの娘ベアトリーチェ・デスデを正妻に迎える。
しかしこの時、チェチリアはすでに妊娠していてまだミラノ宮廷にいた。ルドヴィーコは、聡明で教養豊かなチェチリアを相当気に入っていたようで、チェチリアに宮廷を去るよう命じたのは3月になってからだ。

1491年4月に別の家に転居し、5月にチェーザレスフォルツァヴィスコンティと名付けられる男児を出産する。ミラノの北、サランノの土地を授与され、1492年にルドヴィーコ・ベルガミーニ伯に嫁がされる。政略結婚の犠牲となったとも言えよう。

ミラノのカルマニョーラ邸にサロンを持ち、多くの文化人が出入りしていたというから、魅力的な人だったのだろう。
1498年4月に、ダ・ヴィンチが描いた彼女の肖像画を、ベアトリーチェの姉であるイザべッラ・デスデに見せてくれと言われて絵を送っていることは、以前の記事に書いた。

絵に描かれた「白貂(学名ムステラ・エルミネア)」は、「純粋・清潔」の象徴とされる。ギリシャ語でイタチやオコジョを指す言葉「ガレ」、これを「ガッレラーニ」とかけたのは、ダ・ビンチの言葉遊びか。

1488年にルドヴィーコは、ナポリフェッランテ・ダラゴーナから「白貂」の称号を授与されているので、絵に描かれたチェチリアは、「白貂」たるルドヴィーコを抱いていることになる。

ルドヴィーコの「白貂」称号授与を知ってダ・ヴィンチが絵を描いたとすれば、以前の記事では1484年頃としていたこの絵の製作年は、1488~1490年頃とするのが妥当かも知れない。

ベアトリーチェ・デスデとの婚約は1480年。ルドヴィーコはその後1487年頃にチェチリアに出会い、ベアトリーチェと結婚後、チェチリアに子が生れる前にようやく宮廷を去ることを命じている。

このことと、ダ・ヴィンチの絵が彼女が死ぬ1536年まで、ずっと彼女の手元にあったことを考えると、二人の強い結びつきを感じる。
この絵は、その後様々な場所を渡り歩き、「旅するチェチリア」とも言われた。

18世紀にミラノのボナサーナ侯爵家が保有
1800年頃、ポーランド皇太子アダム・イエジ・チャルトリスキが所持。
1842年、チャルトリスキ家パリへ亡命(1830年ロシアのポーランド侵入を受けて)
普仏戦争(1870~1871年)後に、チャルトリスキ家はポーランド帰還
1876年、クラフクのチャルトリスキ美術館で一般公開
1939年、独ナチス侵攻前にシェ二アヴァに隠される
しかしナチスに発見され、ベルリン、カイザー・フリードリッヒ美術館に展示
その後、ナチスポーランド総督ハンス・フランクのコレクションになる予定だった。
1945年、ポーランドアメリカ連合軍、バイエルン州のフランクの別荘で絵を発見
1952年、絵はポーランドワルシャワ
1955年、クラフクに戻るが、
1972年、ソ連政府の指示でモスクワへ、その後クラフクへ返還。

写真のなかった時代、一人の天才が描いた一人の女性の絵が520年もの時を超えて伝える歴史がある。
どこかの国のように、声の大きさが歴史を作るわけではない。
しばし、チェチリアの絵の前に佇むがよい。
さすれば、自分たちの声の大きいことの空しさ、愚かさに気がつくかも知れない。
それなりの感受性と知性があればだが。

(つづく)