遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

「音楽家の肖像」の帰属問題

レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯(13)

私もやがていつか、死ぬ時が来る。
その時まで、常識の枠の中で自分を固く守り、
日々指の間から砂が抜け落ちて行くように、
冒険する心と機会を失っていくのだとしたら、
一体何のために生きているのか・・・。
森下典子 『前世への冒険』

 

1480年代後半までに、ダ・ヴィンチはミラノに工房を持った。弟子は10人以下の規模だったようだ。1495年頃に、6人の弟子がいたことが知られている。
ジョヴァンニ・アントニオ・ボルトラッフィオマルコ・ドッジョーノジャコモ・カプロッティ(通称サライ)、フランチェスコ・ナポレターノ(フランチェスコ・ガッリ)、トンマーゾ・マシーニゾロアストロ)、ドイツ人ジュリオの6人だ。
1490年代後半には、ガレアッツオ、べネデッド、イオディッティ、ジャンマリア、ジラルド、ジョヴァンニ・ピエトロ・リッツォ-リ、バルトロメオ・スアルディらがいた。
上記の人たちが、ダ・ヴィンチの弟子とされる人々だ。
工房は、フィレンツェ時代を過ごしたベロッキオ工房と同様と考えていい。
ダ・ヴィンチの監督下で助手たちが描き、ときに師匠が手を入れて修正したりしていた。だから、どこまでダ・ヴインチが描き、どこまでが弟子が描いたか判然としないから、どの絵のどこまでが、ダ・ヴィンチの真筆か常に問題になる。
サルバドール・ムンディ』が現れたように、或いは『アイルワースのモナ・リザ』がダ・ヴィンチの真筆ではないかとされるように。

ダ・ヴィンチは「20歳以下の若者には絵筆や絵具を触らせず、ただひたすら鉛の尖筆で(素描の)練習をさせ」、結構厳しい師匠だったようだ。
こうした工房で、アンブロージョ・デ・プレディス兄弟ら共同制作者とも協働しながら祭壇画、聖母子像、肖像画などを作製し、宮廷イベントなどを請け負ったのだろう。

ミラノのダ・ヴィンチ工房で、ダヴィンチ作の現在知られている絵画は下記。
・チェチリア・ガッレラーニの肖像
・音楽家の肖像
・婦人の肖像
・リッタの聖母
チェチリア・ガッレラーニの肖像』は前に書いたので、ここでは6月まで東京都美術館で展示されていた『楽家の肖像』について書いてみましょう。

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『音楽家の肖像』 1485年頃 アンブロジアーナ絵画館所蔵

【来歴】
1618年 フェデリーコ・ボッロメオ枢機卿がアンブロジアーナに寄贈した文書に「二人の頭部。一枚はミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ、もう一枚はペトラルカのもので、いずれもレオナルドによる」とある。前者が、「音楽家の肖像」に相当する絵ともとれるが証拠がない。

1685年 アンブロジアーナ絵画館の所蔵品目録に、「ミラノ公の肖像」ベルナルド・ルイ-二作「もしくはレオナルドによる」と修正の書き込みがあるものが、「音楽家の肖像」と考えられ、この頃にはアンブロジアーナにあったと思われる。

【帰属問題】
『音楽家の肖像』の作者は、17世紀後半まで、「レオナルデスキ」(レオナルド風に描いた画家)の一人であるベルナルド・ルイ-二とされていた。
19世紀を通じてレオナルド帰属は否定されつづけ、ルイ-二とアンブロージョ・デ・プレディスの間を揺れ動いた。

1906年ルカ・ベルトラーミが、レオナルドの帰属としたが、否定的な人々も多かった。しかし、20世紀後半の美術史家(カステルフランコ、べドレッティ、ルッソ-リら)たちが、レオナルドの手になるとし、今日に到っている。
最初はレオナルドが着手し、デ・プレディスあるいはボルトラッフィオによって仕上げられたとする説も、今日では否定されている。

【モデル】
絵に描かれたモデルも、ミラノ公やロベルト・サンセヴェリーらスフォルッツア家の宮廷にいた人物とされていたが、1905年の調査で「手に持った楽譜」が発見され音楽家がモデルであることがわかった。

その頃、ミラノ大聖堂聖歌隊の指揮者であったフランキーノ・ガッフーリオではないかとされたが、他の肖像画木版画のガッフーリオとは似ていないこと、彼はこの時期30代後半と思われ、絵画のモデルより年長と思われることから、ガッフーリオ説はとられていない。

1482年、ダ・ヴィンチがミラノに旅立つ時のメモ(作品リスト)に、「顔をあげたアタランテを描いた頭部」とあることから、ダ・ヴィンチの音楽の弟子であったアタランテ・ミリオロッティだとする説が今日では支持されている。

【レオナルド帰属は本当か】
『音楽家の肖像』に対して、専門家たちはどう見ているか。
描かれた人物がもつ精神性、フィレンツェで習得した頭部の彫刻的表現、『受胎告知』につなが顔の明暗の強い対比、こうした特徴がダ・ヴィンチのものだという。

チャールズ・二コルは「レオナルド工房が生み出したもっとも生き生きとした肖像画のひとつ」と言っている。
確かに、骨相学にも興味を持ち、様々な顔を素描にも描いたので、特徴ある顔を絵に描いたであろうことは不思議ではない。

美術史家の大先生たちを前に、無名のモンモがこういうのも憚られるが、それでも、「しかし」といわざるを得ないのだ。
チェチリア・ガッレラーニやモナ・リザを知っているからには、絵の中の帽子や衣服、ストールは、ダ・ヴィンチのものではないだろう。
描かれた人物にどんな精神性が現れているというのだろう。モンモには読みとることが出来ない。
顔の明暗の強い対比が『受胎告知』につながる?「光と影の自然な明暗」こそダ・ヴィンチなのではないか。
ダ・ヴィンチの描いた絵で、頭部の彫刻的表現と言えるものは、『聖ヒエロニムス』くらいだ。これを以て「彫刻的表現」だから、ダ・ヴィンチだとは言い過ぎのように思う。

『受胎告知』の聖母マリアがめくる聖書のページ、あのリアルさを見たものにとって、この楽譜はダ・ヴィンチが描いたとするには大きな疑念を持たざるを得ない。
メモに「顔をあげたアタランテを描いた頭部」とあり、アタランテ・ミリオロッティとおぼしきスケッチもあるので、スケッチはしたかも知れない。あるいは、ダ・ヴィンチがよく描くような巻き毛の頭髪も手をいれたかも知れない。でもせいぜいそのくらいの関与なのではないか。

もともと20世紀後半まで、ダ・ヴィンチ作とはされていなかった絵だ。モンモは、そう判断していた人々の説に与したいとおもう。
『音楽家の肖像』は、レオナルド工房作とするのが妥当なのではないだろうか。

(つづく)