遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

ダ・ヴィンチ ミラノへ

レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯(10)

第一に、過去ではなく未来を選ぶ。
第二に、問題ではなく機会に焦点を合わせる。
第三に、・・・独自性をもつ。
第四に、・・・変革をもたらすものを選ぶ。

意見の不一致は三つの理由から必要である。
第一に組織の囚人になることを防ぐため、
第二に選択肢を得るため、
第三に想像力を刺激するためである。
ドラッカー『経営者の条件』)

 

ダ・ヴィンチフィレンツェにいた最後の記録は1481年9月28日、ミラノにいたという最初の記録は1483年4月23日だから、その間に彼はミラノへ行ったことは確実だが、実はそれ以外何も分かっていない。
どうしてミラノへ行くことになったのか。
それはいつのことか。
この主要な2つのことは分かっていないのだ。

1471年、ロレンツォがメディチ家家督継承の祝いで、ミラノ公ガレアッツォ・マーリア・スフォルツァとその弟のルドヴィーコスフォルツァ(通称イル・モーロ)がフィレンツェを訪問した時、歓迎の宴をヴェロッキオ工房が演出したから、ダ・ヴィンチはルドヴィーコスフォルツァを知っていたことは確かだ。

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作者不明 ルドヴィーコスフォルツァ(イル・モーロ) フィレンツェ ウフィッツィ美術館

音楽好きのルドヴィーコのために大音楽会が開催され、そこでリラ(竪琴)を演奏したのがアタランテ・ミリオロッティヴェロッキオおよびダ・ヴィンチだった。
そして、悪行の限りを尽くしたガレアッツォが暗殺されると、息子ジャン・ガレアッツォ・マーリアの摂政となったルドヴィーコの摂政就任祝いに、ダ・ヴィンチは献上用に銀で作った馬蹄形のリラを携えてミリオロッティとミラノへ行ったようだ。

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ミラノ大聖堂
1386年ミラノ・ヴィスコンティ家のジャン・ガレアッツォによって着工され、1813年イタリアに侵入したナポレオンによって完成した。

彼はロレンツォに文化使節として派遣されたのか、それともルドヴィーコに招かれたのか、と議論があるが、それは分からないとしか言いようがない。

ルドヴィーコダ・ヴィンチの素晴らしいリラの演奏も歌声も知っていたし、ロレンツォはフィレンツェの芸術家達を他国へ派遣していたから、ミラノへは音楽家として、摂政就任祝の使節団に加わっていたというのが最もありそうな話だ。

ミラノへ行ったのは1481年後半から1482年初頭にかけてと思われるが、1482年初にベルナルド・ルチェッライピエル・フランチェスカ・ダ・サン・ミニアートとともに外交使節としてミラノに派遣されている。
この使節団がフィレンツェを発った日なら、1482年2月7日と分かっている。ミラノには一週間ほどで着いたろう。

ベルナルドはプラトン主義者で、1470年代後半にレオナルド工房で働いていたと思われる金工師錬金術トンマーゾ・マシーニゾロアストロ)のパトロンだったし、ロレンツォの義理の兄弟でもある。また『聖ヒエロニムス』の注文主という説もあり、レオナルドとは何らかの繋がりがあったと思われる。

彼はまた1484年から86年にはミラノ駐在のフィレンツェ大使を務めている。ダ・ヴィンチは、使節団の一行に加わっていたという説には説得力がありそうだ。
そして2月23日はミラノでは「アンブロシウスのカーニバル」で、カーニバルの宮廷の催しの一環として音楽演奏コンクールが行われたというから、ダ・ヴィンチは音楽家としてミラノ宮廷に入り込んだと思われる。

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1573年当時のミラノの地図
城壁に取り囲まれ、中央上にスフォルツェスコ城がある。

しかし、ただの音楽家ではなかった。
有名なルドヴィーコへ宛てた「自薦状」がある。要約すればこんな内容だ。
①軽くて強固な橋を作る方法を知っている。
②攻囲戦の時の、濠から水を抜く方法、攻城用の装置を作る方法を知っている。
③堅固な要塞を破壊する方法を知っている。
④特殊な大砲で小さな石を雹のように発射し、噴きだす煙で敵に恐怖を与えることができる。
⑤地下トンネルや秘密の通路を作る方法を知っている。
⑥あらゆる攻撃に耐える装甲車を作りましょう。
⑦大砲、迫撃砲、軽砲を作りましょう。
⑧砲撃に適さない場所では、石弓、投石機、鉄菱他を考案しましょう。
⑨海での戦闘では攻撃と防御に有効な多くの機械を持ち、どんな攻撃にも耐えられる船を作れる。
つまり「攻撃と防御のためにかぎりなく多様な機械を考案できる」と言い、手紙の末尾に「絵画においては、およそ可能なことすべてを私は行うことができる」と付け加えている。

そして「ブロンズの馬の制作を開始することができるでしょう。それは、閣下の父上の幸福な記憶ならびに高名なるスフォルッツァ家にとりまして、不朽の栄誉と名声をもたらすものとなるでしょう」と、恐らくダ・ヴィンチが最も言いたい話しで結んでいる。
スフォルッツァ家から騎馬像制作の注文があるという噂に、それならばこのダ・ヴィンチにご注文を、と要求しているのだ。ただし、この手紙が実際にルドヴィーコに出されたかは分かっていない。

3月6日付けで、ベルナルドからロレンツォへ報告書が書かれている。
そこには「カザルマッジョーレの要塞計画とデザイン」について、ルドヴィーコと議論したとある。ポー河沿いの要塞計画の背景には、このダ・ヴィンチの「自薦状」の内容が反映しているのかも知れない。

が、それまで経験のない軍事技術について、こうまで堂々と言っているのはなぜか。アイディアばかりで、実際に作ったこともないものを、ここまで言うなら、彼はひょっとして、こうした軍事技術に挑戦したかったのではないかと、思ってしまう。

銀製のリラを演奏してそれを献上し、ミラノの大音楽会で歌ったダ・ヴィンチが望んだのは、ミラノ公の「軍事技術顧問」という新しい未来だったのではないか。
もちろん画家、彫刻家、音楽家、宮廷イベント演出家という多様な相貌も含めて。

(つづく)