遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

2013年ラファエロ展

人生は思いもよらなかった場所に人を連れて行くものだ・・
でも、よいこと、意味のあることをしていれば・・
自分は正しいことをしてるって信じられる
(ジェフリー・ディーバァー『ウォッチメイカ―』)

人は自らに課す要求に応じて成長する。
自らが成果とみなすものに従って成長する。
自らに少ししか求めなければ、成長しない。
多くを求めるならば、
何も達成しない者と同じ努力で巨人に成長する。
ドラッカー『経営者の条件』)

 


上野・国立西洋美術館ラファエロが開催されている。
ラファエロ・サンティは、1483年4月6日(もしくは3月28日)にウルビーノで生れた。父は画家で詩人のジョヴァンニ・サンティ。育った環境もあっただろうが、10代で既にその才能は高く評価されていた。

1503年20歳でフィレンツェへ活動の場を移し、1508年ローマへと行くことになる。『豪華王ロレンツォ・デ・メディチの死後、ルネサンス芸術の中心はフィレンツェからローマへと移っていた。
ここでラファエロは、教皇ユリウス二世レオ10世(ロレンツォの息子ジョヴァンニ)の後援のもとでルネサンスにおける彼の名声を確たるものにする。

f:id:monmocafe:20190524214816j:plain

ラファエロ 『大公の聖母』 1505ー1506年 フィレンツェ、パラティーナ美術館

大公の聖母』は、フランス軍トスカーナ侵攻に伴い、ウィーンに亡命していた大公フェルディナンド3世が売りに出されたこの絵を、ウフィツィ美術館の監督官トンマーゾ・プッチーニに命じて購入させたことに由来する。

1984年、2009-2010年の赤外線リフレクトグラフィ―やX線撮影、マルチスペクトラム赤外線撮影により、オリジナルでは背景には窓枠があり風景が描かれていることが判明した。それが劣化したため17世紀か18世紀に二度にわたり背景が黒く塗り込められというのだ。輪郭の一部が黒色背景に塗り重ねられたため部分的な加筆が行われた。光輪やキリストの頭髪などが加筆された部分だという。

その他、いくつかの絵をご紹介しましょう。

f:id:monmocafe:20190524215016j:plain

ラファエロ 『無口な女(ラ・ムータ)』 1505-1507 ウルビーノマルケ州国立美術館

 

f:id:monmocafe:20190524215055j:plain

ラファエロ 『自画像』 1504-1506 フィレンツェウフィツィ美術館

 

f:id:monmocafe:20190524215133j:plain

ラファエロ 『ヴェールの女(ラ・ヴェラ-タ)』1512-13(又は1515-16)
フィレンツェウフィツィ美術館(今回の展覧会では来日していない)

ローマでの彼の主な仕事はヴァチカン宮の装飾事業だった。
絵画・壁画で一生を通じ、多産だったラファエロの代表作といえば、恐らくヴァチカン宮を飾ったこれらの壁画だろう。展覧会では見られないのが残念なのだが一部ご紹介しましょう。

f:id:monmocafe:20190524215237j:plain

署名の間 1509-1511 ヴァチカン美術館(右側の壁画が『アテナイの学堂』)

f:id:monmocafe:20190524215943j:plain

アテナイの学堂

 

f:id:monmocafe:20190524215328j:plain

ヘリオドロスの間 1511-1514 ヴァチカン美術館

 

f:id:monmocafe:20190524215403j:plain

ボルゴの火災の間 1514-1517 ヴァチカン美術館

f:id:monmocafe:20190524215437j:plain

コンスタンティヌスの間 1517-1524 ヴァチカン美術館

 

1519年にダ・ヴィンチが死んだ翌1520年4月6日、ラファエロは37歳の若さでその絶頂期に死んだ。彼の遺骸は最高の栄誉をもって、ローマのパンテオンに埋葬された。教皇付士官の衣服を着て眠っているという。碑文にはこうある。

ここにかのラファエロあり。
自然は在りし日の彼に凌駕されることを恐れ、
彼が歿した時にはともに歿することを恐れた。

当時最高の文学者で、教皇レオ10世の勅命書記官でもあったピエトロ・ボンベによる銘文である。
ミケランジェロはまだ存命であったが、美術史の教科書では一般的に、彼の死んだ1520年でルネサンスは終了し、以降マニエリスムの時代へと移っていったとされている。
その意味でラファエロルネサンス最後を象徴する人物であったといえる。

ラファエロ
2013年3月2日-6月2日
国立西洋美術館