遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

ダ・ヴィンチ モナ・リザ

第二のモナリザ(3)


見解は重要だ。原理は重要だ。言葉は重要だ。
きみの言葉はなによりも重要だ。
きみの言葉は、きみという人間なんだ。

これが最後の教訓だ、ジャック。
きみはここに立脚しなければならない。
トム・クランシ― 『いま、そこにある危機』 文春文庫


現在ルーヴル美術館に伝わる『モナ・リザ』は、1503年からフィレンツェに戻ったダ・ヴィンチが描き始め、未完のままミラノ、ローマ、フランスへと持ち歩き、ダ・ヴィンチの美の理想を表現しようと描き続けた、というのが通説になっている。

もう一度、少ない手掛かりと当時のダ・ヴィンチをめぐる歴史を重ね合わせて、「モナ・リザ」を考えてみよう。

 

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ダ・ヴィンチ 『モナ・リザ』 パリ・ルーヴル美術館

 

【残されている当時の資料に関して】
(資料A~D)については『第二のモナ・リザ(1)』参照

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モナ・リザをめぐる人物については『第二のモナ・リザ(2)』参照。

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フィレンツェの役人が1503年10月に書いたメモ」(資料A)に関して

ダ・ヴィンチが描いた「リザ・デル・ジョコンドの肖像」は、1519年にダ・ヴィンチが残したルーヴルの『モナ・リザ』だという直接の証拠はない。描き始めたとき、リザは24歳、残された「婦人の像」は34~35歳、この10年間の表情の変化をモデル不在のまま、ずっと美の理想像を求めようと、描き続けたのだろうか。

注文主は分かっていないが、1503~04に描いた絵をその後15~16年間も彼は持っていて、その間注文主へ機会があっても納めていないことになる。それは何故か。考えられるのは、その絵はもはや依頼人のものではなくダ・ヴィンチ自身のものになってしまったからとしか考えられない。

「1504年、ラファエロが、ダ・ヴィンチが描いていたという絵をスケッチ」(資料B)に関して

⇒絵の女性は十分若く、背景に2本の柱が特徴的で、「第二のモナリザ」に似ている。スケッチしたとされる絵が、本当にダ・ヴィンチの絵をもとにしているのか、どれだけ忠実にスケッチされているのか分からないが、「第二のモナリザ」の傍証にはなりそうだ。

「1517年10月10日、アラゴン家ルイジ・ダラゴーナ枢機卿の秘書が書いた「旅行記」」(資料C)に関して

⇒「モデルによって描いたフィレンツェのある婦人の像」が「リザ・デル・ジョコンド」だとは言っていない。が、時期的に、残された『モナ・リザ』の注文主が、「旅行記」にあるようにジュリア-ノ・デ・メディチである可能性は大きいのではないか。

なぜなら、1502年にウルビーノで二人が会ったとはいえ、その時すぐジュリア-ノが絵の依頼をするものだろうか。依頼をするならダ・ヴィンチがジュリア-ノに招かれたローマ時代以降が自然と思われる。

「1550年にヴァザーリが書いた『ルネサンス画人伝』の記述」(資料D)に関して

ルーブル美術館の絵が、「モナ・リザ」といわれるようになったのは、このヴァザーリの記述があってからである。

もちろん、「旅行記」と「役人のメモ」などヴァザーリも知らなかったろうから、最後に残された「婦人の像」が、「リザ・デル・ジョコンド」であることを、まだ生存しているダ・ヴィンチ周辺の人物などからの聞き取り調査などで調べたであろうことは推測できる。

ただし、その絵が、ルーヴルの『モナ・リザ』なのか「第二のモナリザ」なのか、どの絵を想定して話を聞いたか不明だ。ヴァザーリは、どんな絵だったか知らないし、1503年当時の人が「第二のモナリザ」の絵を見ていて、その話をしていたかも知れないのだ。

【『モナ・リザ』の謎へ】

文献にもよるが、リザの夫フランチェスコ・デル・ジョコンドはレオナルドの家族の知人と交流があり、生まれた息子からなる新しい家族のために屋敷を購入し、その記念に肖像画を注文した。ダ・ヴィンチの父は公証人だったのでこれは考えられる。

一方、別の専門家は、1502年ウルビーノ公国で捕われていたジュリア-ノが、ダ・ヴィンチを訪ねてきた時に、肖像画を注文したという。リザの父はメディチ派の政治家、リザとジュリア-ノは同じ年の生まれだから、リザはジュリア-ノの初恋の相手だったかも知れない。

しかし、フィレンツェからの逃亡先で、ジュリア-ノがダ・ヴィンチに自分の初恋の相手の肖像画をいきなり描いてくれと頼むだろうか。ダ・ヴィンチフィレンツェからミラノへ発ったとき、まだジュリア-ノは3歳、メディチ家が追放されたのは15歳でしかなく、1502年7月にジュリア-ノがダ・ヴィンチを訪ねるまで親しい交流があったとは考えにくい。

もし、ジュリア-ノが依頼したとすれば、ダ・ヴィンチをローマに招聘した1513年以降のことだと思われる。1503年~04年に、ジョコンド家からリザの肖像画を依頼され描いたことを話し、「あ~、あのリザか」とジュリア-ノは懐かしく思ったろう。「ならば、今度は私のために描いてくれないか」と。

絵を描いた10年前のリザを思い浮かべながら、若いリザの面影に年輪を重ねてルーヴルの『モナ・リザ』を描いたのではないか。再度1506年ミラノへ赴いてから、ローマ、フランスへと移動するので、再びフィレンツェのリザをモデルにすることはなかったと思われるし、ジュリア-ノも1516年3月に亡くなり、絵を渡すことはできなかった。『モナ・リザ』はまた、亡きジュリア-ノの形見でもあったのではないか。

ダ・ヴィンチ ほつれ髪の女』でご紹介した、弟子のサライの財産目録に一点のジョコンダが含まれているのをどう考えるか。

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最後に残された『モナ・リザ』がルーヴル美術館へ辿りつくまでの経緯はあまりよく分かっていない。が、最後に残された三枚の絵がともにルーヴル美術館に伝わるので、ダ・ヴィンチが死んで以降、サライが死ぬまでの間、『モナ・リザ』がサライの元にあっても不思議ではないようにおもう。

 

【モンモのモナリザ仮説】

ダ・ヴィンチが描いたモナ・リザは二枚あった。「アイルワースのモナリザ」そしてルーブル美術館の『モナ・リザ』だ。

「アイルワースのモナリザ」は1503年~1504年頃にフィレンツェで描かれ、注文主は、リザの夫フランチェスコ・デル・ジョコンド。未完ではあったがフランチェスコへ渡されたのではないだろうか。

ルーヴルの『モナ・リザ』は、1513年以降に描かれた。描かれた場所は、ローマ及びフランス。注文主は、ジュリア-ノ・デ・メディチ。1516年にジュリア-ノが死んだので絵はダ・ヴィンチの元に残った。

とはいっても、これは考えられるストーリーの一つであるに過ぎず、説得力のある歴史的資料に裏付けらているわけでもない。

何らかの決定的な証拠が出るまで、『モナ・リザ』は私たちにとって謎のままだろう。

 

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アイルワースのモナリザ 個人蔵 16世紀


【参考文献】
レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上)(下)杉浦民平訳 岩波文庫 1954年
若桑みどり フィレンツェ 文藝春秋 1994年
池上英洋 ルネサンス歴史と芸術の物語 光文社新書 2012年 
カルロ・べドレッティ他 レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と科学 イースト・プレス 2006年
アレッサンドロ・ヴェッツォ-ジ監修 レオナルド・ダ・ヴィンチ美の理想 毎日新聞社 2011年
フランク・ツェルナー レオナルド・ダ・ヴィンチ TASCHEN 2000年(英語版及び日本語版)
佐藤幸三、青木昭 図説レオナルド・ダ・ヴィンチ 河出書房新社 2006年
宮下孝晴、佐藤幸三 フィレンツェ美術散歩 新潮社 1991年

佐藤幸三 モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか じっぴコンパクト新書 2011年
ジョルジュ・ヴァザーリ 芸術家列伝3 白水社 2011年
チャールズ・二コル レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯 白水社 2009年
ビューレント・アータレイ、キース・ワムズリ― ダ・ヴィンチ 日経ナショナル ジオグラフィック社 2009年
雨宮紀子、南川三治郎 メディチ家 ルネサンス美の遺産を旅する 世界文化社 2011年
木島俊介 名画が愛した女たち 集英社 2012年
塩野七生 ルネサンスとは何であったのか 新潮社 2001年
高階秀爾 フィレンツェ 中公新書 1966年