フィレンツェ パッツィ家の陰謀
思考の力が
悪意及び公然たる暴力に加わると
人間には逃れようがない。
(ダンテ 『地獄篇』)
ひとたびロレンツォがフィレンツェから消えれば、
われわれはその共和国を思い通りに動かすことができ、
実に好都合なのだ
(シクストゥス4世、モンテセッコの供述から)
シクストゥス4世
世にパッツィ家の陰謀として知られる事件が起こったのは、1478年4月26日のことである。教皇シクストゥス4世の甥ジローラモ・リアーリオ枢機卿の妹の子ラファエロ・サンソーニ枢機卿が、リアーリオをイ-モラに訪ねる途中にロレンツォを表敬訪問するためフィレツェを訪ねた。
しかし、これは1477年から、シクストゥス4世、リアーリオ、ピサの大司教サルヴィアーティ、フランチェスコ・デ・パッツィらパッツィ家の面々、傭兵隊長ジャンバッティスタ・ダ・モンテセッコらが周到に計画したロレンツォとジュリア-ノのメディチ兄弟暗殺を行うための口実であった。
市をあげての供応があった翌4月26日、事件はサンタ・マリア・デル・フィオ-レ大聖堂のミサの時に起こったのである。
聖歌を静かに聞いていたジュリア-ノの背後に、フード付きのマント姿でフランチェスコ・デ・パッツィとベルナルド・デ・バンディーニが近づいた。ベルナルドは短剣でジュリア-ノのわき腹を、フランチェスコが胸に刃を突き立てた。
腹を押さえて後ずさって倒れたジュリア-ノに、暗殺者たちはなおも襲いかかった。頭蓋骨を鈍器で打ち砕き全部で19箇所もの刺し傷を負わせた。フィレンツェで絶大な人気を誇った25歳のジュリア-ノはその場で絶命した。
ジュリア-ノ・デ・メディチ
祭壇の反対側で、ヤコポ・パッツィに仕える司祭兼書記官ステーファノ・ダ・パニョーネと教皇秘書アントーニオ・マッフェイが、ロレンツォに近づいた。本能的に振り返ったロレンツォは、最初の短剣の一撃をかわし、そこにロレンツォの友人フランチェスキーノ・ノ-リが割って入り腹部を刺されて倒れた。
ロレンツォはさらなる攻撃を二度、三度とかわしつつ、祭壇左側にある聖具室に逃げ込んだ。ロレンツォは首に軽い傷を負ったが、数名の友人と聖堂内の騒乱が収まるまでの一時間、そこにたて籠った。
ロレンッォ・デ・メディチ
フィレンツェは大騒乱状態に陥った。
パッツィ家の陰謀(20世紀のエッチング) 中央に倒れているのがジュリア-ノ
兄弟が襲われる少し前、サルヴィアーティ大司教は大聖堂を離れ、ヤ-コポ・ブラッチョリーニとヴェッキオ宮殿の政庁に向かった。フィレンツェの自由の象徴である政庁を制圧するつもりだったが、役人たちに突然の訪問を疑われ、逆に捕われてしまった。政庁の制圧に失敗し、逆に首に縄をかけられ窓から投げられたのである。
反メディチの民衆を扇動しようとしていた別働隊の騎士ヤコポ・デ・パッツィ、モンテセッコらは、逆にメディチ派の民衆に捕えられた。ヤコポは、処刑されパッツィ家の墓所に埋葬されたが、埋葬後墓は暴かれ、副葬品は奪われた。城壁の下に埋められるも、再度掘り起こされアルノ河に蹴り込まれた。
ロレンツォを襲った二人の司祭も、2日後、隠れていた修道院の屋根裏で発見され広場で処刑された。ピエロ・デ・パッツィの7人の息子は陰謀を知っていたリナートだけ処刑され、残りは追放された。
伯父の邸に逃げたフランチェスコ・デ・パッツィはフィレンツェ市民軍に捕まり、通りに引きずり出され、ヴェッキオ宮殿の窓から吊るされた。
モンテセッコは、陰謀の内容を自白した後、陰謀者のなかでただ一人首を刎ねられた。それ以外の全員は絞首刑にされたか、民衆の手で八つ裂きにされた。
処刑された者の数はおよそ80名にのぼった。
パッツィ家の資産は凍結され、祖先の墓石の碑文は削り取られ、家族の肖像画は消し去られた。パッツィ家の女性たちは結婚を禁じられた。
ベルナルド・デ・バンティー二は、トルコに逃げたが、翌年メディチ家の隠密に見つかりトルコ太守に捕まった。フィレンツェに護送され絞首刑にされた姿は、ダ・ヴィンチのスケッチに残されている。
ベルナルド・デ・バンディーニ(ダ・ヴィンチのスケッチ)
リアーリオ枢機卿は、ヴェッキオ宮殿の牢獄に重要な人質として幽閉された。
ジュリア-ノが暗殺されて10年後の1488年4月14日、リアーリオはフォルリで暗殺された。ロレンツォの手が伸びていたのである。
この事件後、パッツィ家や反メディチ派を徹底的に弾圧し、その後のイタリア半島をめぐる対フィレンツェの動きをなんとか押さえこみ、フィレンツェにおける覇権を確実なものにしたロレンツォは1492年4月に死んだ。
次男ジョバンニは1513年レオ10世となっり、教皇庁にメディチ家の足がかりをつくった。
1516年、ロレンツォの孫のロレンツォは、シクストゥス4世の孫であるウルビーノ公フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレを襲撃し、ウルビーノ公に取って代わった。
かつて、パッツィ家の陰謀に積極的に関わっていたとされるウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの孫でもある公を滅ぼしたのである。
シクストゥス4世の甥のユリウス2世は、伯父の肖像画をシスティーナ礼拝堂の祭壇の壁に残すようミケランジェロに言っていた。しかし、1534年9月ミケランジェロがローマに来てみると、祭壇画は消え失せていた。
暗殺されたジュリア-ノの子であるクレメンス7世が、暗殺の首謀者だったシクストゥス4世の姿を壁画から消し去ったのである。
こうしてメディチの復讐は、ジュリア-ノの子によって完結したのである。
【参考文献】
若桑みどり 『フィレンツェ』 文芸春秋
田中耕治 『メディチ家の人びと』 河出文庫
マルチェロ・シモネッタ 『ロレンッォ・デ・メディチ暗殺』 早川書房
南川三治郎、雨宮紀子 『メディチ家』 世界文化社