ダ・ヴィンチ スフォルツア騎馬像
レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯(20)
レオナルドがつくった粘土原型を見た者は、
これほど完成された、あるいはこれほど荘厳な芸術作品は
見たことがないと思うだろう。
(ヴァザーリ)
1489年7月、ミラノ駐在フィレンツェ大使のピエトロ・アラマンニからロレンツォ・デ・メディチへ宛てた定例の報告書に、ルドヴィーコ公がダ・ヴィンチに対して「鎧姿のフランチェスコ公を乗せた巨大なブロンズ製の馬をを造るための模型を製作するよう」依頼したと書かれている。
ダ・ヴィンチがミラノへ行く前から噂になっていた『スフォルツァ騎馬像』の製作がついにダ・ヴィンチへ依頼された。『チェチリア・ガレッラーニの肖像画』の件があるにしろ、この依頼でルドヴィーコとの正式なつながりができたと考えていい。
1493年11月ルドヴィーコの姪ビアンカ・マリア・スフォルツァと神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の婚礼の席に、スフォルツェスコ城ヴェッキアの中庭に騎馬像の原型が展示された。
スフォルツァ騎馬像のための習作 (ウィンザー城英国王室図書館)
騎馬像は馬の頭から足元までが7.2m、フランチェスコの頭までゆうに8mを超えるという巨大さだったという。ダ・ヴィンチもヴェロッキオとともに製作に関わった『コレオーニ騎馬像』(ヴェネツィア)は人馬の高さが4mだから、コレオーニ騎馬像の2倍以上の巨大なものであった。
ヴェロッキオ 『コレオーニ騎馬像』 ヴェネツィア サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ広場
粘土原型に蠟(ロウ)をかぶせ、それを外型で覆い、外型の上から加熱して蠟(ロウ)を溶かし、できた空洞に青銅を流し込む鋳造法で、これまで誰も用いたことのない方法だった。巨大な型や出来上がった銅像を釣り上げるクレーン、鉤、滑車を使った装置が必要で、そのための研究もしている。
スフォルツァ騎馬像鋳造のための素描とメモ (マドリード手稿Ⅱ マドリード、国立図書館)
この原寸大の粘土原型は各方面から絶賛され、ブラマンテは「勝利は勝者に、勝利はダ・ヴィンチの手に」と賛辞を寄せている。
しかし、フィレンツェ共和国の豪華王ロレンツォが亡くなるとイタリアの政治的均衡が崩れ、1494年フランスのシャルル8世がナポリ王国の継承権を主張してイタリアに侵入しミラノに迫った。
この不穏な時代を迎え、ダ・ヴィンチの騎馬像のために用意された青銅70t以上が大砲の作製に振り向けられ騎馬像は造られなかった。
騎馬像の原型はそれから6年間、ヴェッキアの中庭に置かれていたが、1499年10月にフランス王ルイ12世がミラノ侵攻した際に、騎馬像はフランス兵によって破壊された。
スフォルツァ騎馬像のための習作 (ウィンザー英国王室図書館)
どんな騎馬像であったのか、私たちはダ・ヴィンチの残されたスケッチから想像するしかない。
当初ダ・ヴィンチは、後足で立ち上がる騎馬像を考えていたようだが、後足でその重量を支えることが難しく並足で進む騎馬像にすることにしたようだ。
スフォルツァ騎馬像のための習作 (ウィンザー城英国王室図書館)
戦争は、人間が精魂込めて創造した建造物を破壊する。それは現代でも変わらない。人間は戦争から何も学んでいないことの何よりの証左ではないか。ダ・ヴィンチの遺されたデッサンから、彼の悲痛な叫びが聞こえるようでならない。
(つづく)