遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

第二のモナ・リザ(1)

なぜ夢の中では、
目が覚めているときに想像力によって見るよりも、
はっきりと物が見えるのだろう
ダ・ヴィンチ

 

この話題も少し時間が経ってしまった。が、モンモとしては書かなくてはなりますまい。ダ・ヴィンチは連載中なので、『モナ・リザ』は最後のほうで書こうと思っていたのですが・・・。

9月27日、スイスの財団「モナリザ基金」が、20世紀初めに英国の貴族宅で発見された女性肖像画が、ダ・ヴィンチが描いた「第二のモナリザ」だという鑑定結果を発表した。

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アイルワースのモナ・リザ 16世紀 個人蔵


以前、『ダ・ヴィンチ ほつれ髪の女』の記事で紹介した『アイルワースのモナ・リザ』である。
この絵がダ・ヴィンチの真筆とする論拠は、以下の通り。
(2012年10月4日読売新聞)

①デジタル技術で、ルーブル美術館の「モナ・リザ」の顔を11~12歳若返らせると「第二のモナリザ」になる。
ラファエロが1504年にダ・ヴィンチのアトリエで「モナ・リザ」をみて描いたとされるスケッチの背景の2本の柱と同様の柱が描かれている。
③絵具の下に模写では描かない下絵が確認された。
④左利きの特徴が確認された。


専門家ではないので科学的調査や歴史文書調査には限界があるが、素人ながら歴史的な事実や基本的な古文書のメモなどから謎に迫ってみるのも一興だろう。

先ずは、基本的な手掛かりから。

【資料A】
2008年1月14日ドイツ、ハイデルベルク大学図書館で発表があった。
古書の余白にフィレンツェの役人が1503年10月に書いたメモが見つかったというのだ。
ダ・ヴィンチは3つの絵画を制作中で、うち一つはリザ・デル・ジョコンドの肖像だ」と記されていた。メモの時期も絵の制作時期と一致している。

【資料B】
1504年、21歳のラファエロが、フィレンツェサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の「教皇の間」にダ・ヴィンチを訪ねている。その時ラファエロが、ダ・ヴィンチが描いていたという絵をスケッチしている。それが、これである。

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ラファエロのスケッチ パリ・ルーヴル美術館

【資料C】
1517年10月10日、アラゴンルイジ・ダラゴーナ枢機卿の秘書が書いた「旅行記」に、こういう記述がある。一行がフランスのフランソワ1世を訪問したときの記述である。

「ある町で閣下とわれわれ共の者はフィレンツェ人のレオナルド氏に会いに行った。・・・当代最高の画家である氏は、三点の絵を閣下の高欄に供した。
一点は、故ジュリア-ノ・デ・メディチ閣下の依頼により、モデルによって描いたフィレンツェのある婦人の像。もう一点は、若い洗礼者ヨハネの像。そして三点目は、聖アンナの膝の上にいる聖母子像であり、いずれも完璧な出来栄えだった。」

【資料D】
ダ・ヴィンチ没後31年、1550年にヴァザーリが書いた『ルネサンス画人伝(芸術家列伝』の記述はこうだ。

「レオナルドはフランチェスコ・デル・ジョコンドのために、その妻、モナ・リーザの肖像画を描くことになった。そして4年以上も苦心を重ねた後、未完成のまま残した。この作品は現在フランスのフランソワ王の所蔵するところとなり、フォンテーヌブローにある。」

しかし、ヴァザーリは眉毛やまつ毛が見事だと言及しているので、実際に「モナ・リザ」を見たのではないことが分かっている。まだ生存していた関係者からの聞き取り調査によって書かれたと思われる。

ヴァザーリは、第一版の出版後の1566年、ダ・ヴィンチの養子フランチェスコ・メルツィに話を聞きにミラノに行っている。1568年に第二版を出版したが、ダ・ヴィンチに関するこの部分の記述に変更はない。

少し長くなりそうなので、次回以降の記事で『モナ・リザ』をめぐる人々の動きからこの謎について考えてみよう。(続く)