遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

ボッテチェリとルネサンス

去年もボッテチェリ関連の展覧会がありましたから、サンドロ・ボッテチェリは結構日本でも人気があるようです。(「ウフィツィ美術館展」参照)

monmocafe.hatenablog.com

ボッテチェリとルネサンス フィレンツェの富と美』の展覧会がありました。

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フィレンツェルネサンスの源泉としての富。その富をもたらしたメディチ家を中心とした金融業を知ってもらおうと、フィオリーノ金貨コレクションや質屋の木製金庫、為替手形などが展示されています。

 

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サンドロ・ボッテチェリ 『ケルビムを伴う聖母子』 1470年頃 ウフィツィ美術館

今回の展覧会で展示されている絵画のほとんどは、宗教画です。教会の価値が支配していた当時の西欧世界では、宗教画は日々の生活にありふれたものだったでしょう。しかし、交易圏の拡大、コンスタンチノーブルの陥落、滅亡したビザンチン帝国からの人々の流入ギリシャ・ローマ文化の再発見を経て、西欧社会はゆっくりと大航海時代へと動いていきます。

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サンドロ・ボッテチェリ 『剛毅』 1470年 ウフィツィ美術館
※この絵は今回来日していません。

そして、教会的価値観の象徴としての宗教画の中に、「人間らしさ」の表現が生まれ、ここからギリシャ・ローマ再発見を通じて、自然科学、文学などあらゆる分野で、「ありのままに現実を観察し、現象に潜む原理の探求」という人間の精神活動が近代を切り開いていくことになります。
その始まりが、フィレンツェでした。

ボッテチェリが生まれたのは1445年。画家を志しフィリッポ・リッピの工房に入ったのが19歳(1464年)。そしてこの年、メディチ家の基礎を確固たるものにしたコジモ・デ・メディチが亡くなっっています。そして間もなくロレンツォの時代へとフィレンツェルネサンスは隆盛を迎えることになります。

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サンドロ・ボッテチェリ『回廊の聖母子』1466-67年ウフィツィ美術館

1470年頃からボッテチェリは画家として独立するのですが、彼が画家として最盛期を過ごすのは、1470年代から1492年にロレンツォ・デ・メディチ(豪華王)が死に、メディチ家フィレンツェから追放される1494年頃までです。その後サヴォナローラに影響され、画風も変わり、注文もあまり来なくなったせいか絵を描かなくなっていきます。

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ロレンツォ・デ・メディチ(豪華王)とジュリアーノ

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修道女プラウティッラ・ネッリ 『聖人としてのジロラモ・サヴォナローラ』 1550年頃 個人蔵 

1498年にサヴォナローラが絞首刑にされた後も、ボッテチェリは彼に傾倒していきましたから、これといった絵を描くことなく1510年、借金を抱え貧窮のうちにフィレンツェで死にます。

サンドロ・ボッテチェリ 『受胎告知』(左)1481年ウフィツィ美術館 フレスコ画

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サンドロ・ボッテチェリ 『受胎告知』(右)

(左右合わせて縦243㎝×横555㎝の大きさです)
※冒頭チケットの背景絵がこの『受胎告知』です。(左)と(右)の部分に分けて記載しました。

フィレンツェでほとんどを過ごした彼の65年は、メディチ家の盛衰とともにありました。彼自身は財産もなく困窮して死んだのですが、彼はフィレンツェに、そして世界中の人々にたくさんの作品を残してくれました。それが彼の私たちへの贈り物だったのです。

ボッテチェリとルネサンスフィレンツェの富と美
Bunkamura ザ・ミュージアム 2015年3月21日ー6月28日