2014年ウフィツィ美術館展
(追記 2014.11.22 18:17)
ボッテチェリの1494年以降の代表作品を追加記載しました。
1480年代の作品と比較してご覧になって下さい。
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個人的な自由こそ実に創造の父であり、文化の母である。
(美濃部達吉;東大法学部教授・貴族院議員)
50年もたてば、
彼らはわれわれ一族をこの町から追い出すだろう。
私の思い出としてこの町にのこるものは、
いくつかの建物だけしかあるまい。
(コジモ・デ・メディチ)
風景が変わるように、人の心も変わっていく・・・。
時を越えて続くものは、…芸術だけかもしれない。
(藤本ひとみ『公妃エリザベート』より)
ルネサンスと言えばフィレンツェ、フィレンツェを代表する美術館と言えばウフィツィ美術館。用事があったついでに上野・東京都美術館へウフィツィ美術館展を見にいった。
展示されている絵画のほとんどは宗教画なのだが、今回の展示の目玉はサンドロ・ボッテチェリ『パラスとケンタウロス』(1480-85年頃)だ。
(ボッテチェリ パラスとケンタウロス 1480-85 ウフィツィ美術館)
制作年でお分かりのように、ボッテチェリの代表作『春(プリマベーラ)』(1482年)や『ヴィーナスの誕生』(1483年)と同時期に描かれたものでギリシャ・ローマ精神の復活を象徴する絵画の一つ。従ってルネサンスを象徴する絵画の一つといってもいい。
哲学者フィチーノらの知識人と交流のあったボッテチェリは、ロレンツォ・デ・メディチに最も気に入られた画家の一人だ。
「パラス(ミネルバの異名)が象徴する理性の、ケンタウロスが象徴する感覚に対する勝利」という新プラトン主義的解釈もある。メディチ家の婚礼の贈り物として描かれたとされるこの絵の実物を見ると、その大きさ(縦207×横148cm)、額縁の豪華さも含めて存在感は圧倒的だ。
1492年にメディチ家の当主ロレンツォが亡くなり、フィレンツェが政治的に不安定になると1494年、メディチ家はフィレンツェから追放される。
変わって実権を握った修道士ジローラモ・サヴォナローナは、フィレンツェ衰退の原因は人々の享楽的な生き方にあるとし、メディチ家の退廃や教会の堕落を非難し、民衆に「悔い改めよ」と説教した。そして異教徒(ギリシャ・ローマ)的絵画の多くを燃やした。
それでもボッテチェリの代表作はメディチ家の別荘で生き残り、ルネサンスの息吹きを今に伝えている。
(ボッテチェリ 『春<プリマヴェーラ>』1482年 ウフィツィ美術館)
サヴォナローナに帰依したボッテチェリは、それ以降ロレンツォが生きていた頃のギリシャ・ローマ精神を主題とした華やかな絵を描くことはなかった。
歴史に「たら」「れば」はご法度だが、「もしフィレンツェにあの頃サヴォナローナが現れなければ、ボッテチェリはもっと生き生きとした華やかな絵を描き続けたのではないか」と思わずにいられない。
サヴォナローナは1498年に過激な教会批判をローマ教皇に咎められ処刑されたが、ボッテチェリの華やかさは戻らなかった。
最もルネサンス的な絵をあげるとしたら、フィレンツェ・ロレンツォ時代のボッテチェリの絵画なのではないかとモンモは思う。
(ボッテチェリ 『ヴィーナスの誕生』1483年 ウフィッツィ美術館)
過激な宗教思想は「自然で生き生きとした人間精神の営み」を抑圧する。
それは現代でも変わらない。サヴォナローナによって変貌してしまったボッテチェリの画風、彼の才能を惜しむのはモンモばかりではないだろう。
(ボッテチェリ 『ある女性の肖像』(注)1480-85 ベルリン国立美術館)
(ボッテチェリ 『ある女性の肖像』(注)1480-85 フランクフルト シュテーデル美術館)
(注)25歳で暗殺されたロレンツォの弟ジュリアーノの愛人シモネッタ・ヴェスプッチがモデルとされる。
(追記)1494年以降のボッテチェリ作品
(ボッテチェリ 『誹謗』 1494-1495 ウフィツィ美術館)
(ボッテチェリ 『神秘の降臨』 1501年 ロンドンナショナルギャラリー)
ウフィツィ美術館展 2014年10月11日ー12月14日 東京都美術館(上野)
上記の絵のうち今回来日したのは『パラスとケンタウロス』のみ。