遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

ダ・ヴィンチ 美しき姫君

哲学(フィロソフィー)は、科学(サイエンス)と同じく、
誰かがごく一般的な疑問をいだいたときにはじまる。
バートランド・ラッセル『Wisdom of The West(西方の知恵)』)

人間は、自分自身を支配するよりも
大きな支配力も小さな支配力も、
もつことはできない存在だ
ダ・ヴィンチ


ダ・ヴィンチの絵画を調べ始めた頃、絵の真贋が議論されていたり、『サルバドール・ムンディ』や『第二のモナリザ』など新しくダ・ヴィンチの作品だと発表されることが、500年も経った今もなされていることに驚いていた。
ダ・ヴィンチの絵だと、ある本に載せられていたり、そうでなかったり、真作が疑われていたりする。そうした絵の一つに、『美しき姫君』という絵がある。ダ・ヴィンチには珍しく330mm×239mmの皮紙にチョークで描かれ、古いオーク板に貼った絵だ。

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『美しき姫君』

1998年1月30日、クリスティーズの古典巨匠絵画部門に「ある女性の資産」として出品された絵があった。「19世紀前半、ドイツの画家がイタリアのルネサンスを模した作品」というクリスティーズの説明を誰も疑わなかった。
この肖像画は、画商ケイト・ギャンズによって19000ドルで落札された。

2007年1月、ギャンズの展示会で、この絵にオークションの時と同じ説明をつけ、買い取り額から業者割引をした金額で、ピータ・シルヴァーマンに売却された。
その時の添付された札には、こう書いてあった。
「複数のレオナルド・ダ・ヴィンチ作品を意識した緻密な肖像画。作者はイタリア留学経験のあるドイツ人画家と思われる。」

2007年秋、ニコラス・ターナー(注1)は、ロンドンの画商からこの絵の意見を求められた。絵の説明は「ルネサンス期のイタリアの無名画家による作品」とあった。
(注1)美術評論家、元大英博物館・ゲッティ美術館管理責任者
ターナーは、左手によって広範囲に施されたハッチング(線影。モデルの横顔を明るく際立たせている背景部分)を見て驚いた。左利きで、これほどの美しい造形が可能な人物はダ・ヴィンチしか思いつかなかった。
彼は、本格的な調査をするよう助言したが、賛同を得られず、やがて絵の消息は途絶えた。

2008年1月、ターナールーヴル美術館で、偶然シルヴァーマンに会った。シルヴァーマンは、クライアントから依頼されて子牛皮紙に若い女性を描いたルネサンス期の絵画を調査していると言った。やっとあの絵画の所在を確認できたターナーは、きちんとした科学検証をするよう勧めた。
ダ・ヴィンチの真作の可能性を排除すべきでないと。

2008年春、シルヴァーマンは、この絵の科学分析をリュミエール・テクノロジーに委託した。マルチスペクトル映像技術の先駆者で、ダ・ヴィンチ作品の分析経験を持つパスカル・コットに分析を依頼した。
また、スイス連邦工科大学チューリッヒ素粒子物理学研究所による子牛皮紙の放射性炭素年代測定も行われた。

2008年夏、世界有数のダ・ヴィンチ研究者であるマーティン・ケンプ教授(注2)がこの絵を精査した。(注2)オックスフォード大学美術史学科名誉教授

パスカル・コットとマーティン・ケンプによる発見の主だった要点は次のようなものだった。
・放射性炭素年代測定は、1440年~1650年に作成されたものと見てほぼ間違いない。

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・素描は黒、赤、白のチョーク(トロワ・クレヨン)およびインクペン。
・素描およびハッチングはすべて左利きの画家によるもの。
ウィンザー城王室図書館蔵 『横顔の女』と画風が相似。修正も同じ。

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ダ・ヴィンチ 『横顔の女』 ウィンザー城王室図書館

・髪に覆われて形だけを浮き上がらせる耳、虹彩琥珀色など繊細に表現。

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(上図)『横顔の女』の目元拡大図
(下図)『美しき姫君』の目元拡大図

・衣服の織模様、編み細工、ヘアネットのデザインは、ダ・ヴィンチの他の作品に通じる。
・頭と顔の比率はダ・ヴィンチの法則通り。
・子牛皮紙は写本(おそらく詩集)から切り取られたもの。
・子牛皮紙の左上方端に指紋あり。ダ・ヴィンチの他作品から検出された指紋とほぼ一致。

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(上図左)『美しき姫君』の指紋 (上図右)『聖ヒエロニムス』の指紋
(下図)2つの指紋の特徴点8つを重ね合わせたもの。
(赤が『美しき姫君』、黒が『聖ヒエロニムス』)

・『チェチリア・ガッレラーニの肖像』と顕著な相似点。目の造形、掌を使って整えた膚の色合い、編み細工の複雑な模様、輪郭の作り方など。
・修復の跡あり。修復を行ったのは右利きの人。

(その他)
・この絵の女性の服装は15世紀後半のミラノ宮廷でよく見られたもの。
・モデルはおそらくビアンカスフォルツァ(14歳位で亡くなったとされるベルナルディーナ・デ・コッラディスが生んだ庶子)ではないか。
・もしそうなら1495~96年頃の作品か。

調査の結論は、この絵はダ・ヴィンチの真作であるというものであった。
真作なら130億円の価値があるともいう。
この調査のTV番組が2010年12月にあったようだが、残念ながらモンモは見逃している。

初めてこの絵を見た時、モンモはまず肩に描かれた模様、ヘアネットの網目模様が、『チェチリア・ガッレラーニの肖像』『モナリザ』の衣服の織模様、デューラーが残したダ・ヴィンチのエンブレム(柳の枝の飾り文様)に似ている、というのが第一印象であったので、真作が疑われているとしても、これは真作かも知れないと見ていた。

もちろん真作ではないとする専門家も多数いるようだ。絵の来歴が明らかでない。ダ・ヴィンチに子牛皮紙にチョークで描いた作品はない、等々。
ダ・ヴィンチの真作とする確たる証拠がないなら、それが真作ではないとする証拠もまたない。

しかし、髪に隠れた耳の膨らみ、髪紐やヘアネットで抑えられた部分の髪のふっくらとした型状、衣服の織文様。そして何より、全体に立ち上がる気品ある魂とでも言うべきものが、この絵はモンモに、ダ・ヴィンチの作品であると告げる。
ダ・ヴィンチに妥協はない。

【出典】マーティン・ケンプ、パスカル・コット 『美しき姫君』 草思社 2010年10月

【参考記事】

monmocafe.hatenablog.com

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