遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

ダ・ヴィンチ ミラノで描いた最初の絵

レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯(11)

限界状況で教養は、生の証しとか、
人間の尊厳としか言いようのないものとして、
そっと現れる。
(刈部直 『移りゆく「教養」』 NTT出版

我等は生きねばならぬ。
生きるために謀叛しなければならぬ。
徳富蘆花
(注)明治44年1月大逆事件判決後の東大講演にて

秩序は守られるために、
絶え間なく壊されなければならない。
(ルドルフ・シェ-ンハイマー;分子生物学者)


ミラノで、ダ・ヴィンチの記録が初めて現れるのは1483年4月23日である。
この日付けで、「無原罪のお宿り」同信会ダ・ヴィンチエヴァンジェリスタとアンブロージョのブレディス兄弟との間で、サン・フランチェスコ・グランデ聖堂内の同信会礼拝堂の祭壇画を描く契約が結ばれている。マエストロの肩書はダ・ヴィンチだけについている。

ブレディス兄弟の工房はミラノでの主要な工房であったし、それなりに顧客も持っていたから、ダ・ヴィンチにとっては顧客を確保できること、ブレディス兄弟にとってはフィレンツェ風の絵を共同で描くことができ、双方にとってメリットがあったと考えられる。

ダ・ヴィンチの住所はブレディス兄弟と同じなので、ミラノに行った当初は、ブレディス兄弟の工房に住んでいたと思われる。
契約した祭壇画は、中央パネルと左右のパネルから成り、アーチ型の中央パネル(高さ1.8m×横1.2m)をダ・ヴィンチ、左右パネルをアンブロージョ、木枠の装飾をエヴァンジェリスタが担当し、完成期限は12月8日とされた。

中央パネルには一群の天使、二人の預言者に囲まれた聖母マリアと幼児キリスト、翼部パネルには四人の天使を描くという絵の内容も指定されていた。
しかし出来上がった絵は、聖母子の他は、天使が一人で指定にはない幼児の預言者ヨハネが描かれ、翼部パネルにも天使がそれぞれ一人しか描かれておらず、契約で指定された内容とは異なっていた。

中央パネルの絵(これが『岩窟の聖母』)は、2つのバージョンが存在する。
ルーブル美術館ルーブル版)にあるものとロンドン、ナショナ・ルギャラリー(ロンドン版)にある2点である。なぜ2点の『岩窟の聖母』があるのか。

通説では、英国の美術史家ケネス・クラークが言うように、すでにフィレンツェで描いていた絵がルーブル版で、自分の腕前を見せる見本としてミラノへ持ってきて、後にフランスに持って行ったとされている。
翼部パネルとともにロンドン版のものが最終的に同信会の祭壇に掲げられた、がそれは1507年のことだった。

f:id:monmocafe:20190525123153j:plain

ダ・ヴィンチ(アンブロージョ・デ・ブレディスとの共作) 『岩窟の聖母』1495-1499
ロンドン、ナショナル・ギャラリー

なぜ、1483年12月完成予定のものが、こんなにも遅くなったのか。実は1503年に絵に対する支払をめぐって画家側から訴訟が起こされ、解決をみたのは1506年のことで、その時には絵はまだ未完で、2年の猶予を与えられて絵を完成することになったという。

しかし、これでも疑問は残る。完成予定から訴訟が起こされる1503年までの20年もの間、いったいどうしていたのだろう。同信会側は納品を督促はしたろうが20年間じっと絵が納められるのを待っていたのはいかにも不自然だ。しかも訴訟は画家側から起こされているのだ。

チャールズ・二コルによれば、ダ・ヴィンチたちは1485年頃に作品を同信会に渡したが、支払に不一致があったため1492年に画家たちはルドヴィーコスフォルツァに嘆願書を出し1200リラの「調整額」を要求する援助を求めている。
要求が入れられなければ、別の相手から作品を買い取る申し出があり、作品を引き取るというのだった。
その「別の相手」というのが、ほかならぬルドヴィーコ自身だというのだ。

ルドヴィーコの姪であるビアンカ・マリアが、1493年神聖ローマ皇帝マクシミリアンと結婚する婚礼の贈りものとして「祭壇画」を贈っている。それがルーヴル版だったというのだ。

f:id:monmocafe:20190525123440j:plain

ダ・ヴィンチ 『岩窟の聖母』1483-1485 パリ、ルーブル美術館

レオナルドの伝記を書いたアントニオ・ビッリ手稿に「レオナルドはミラノ公ルドヴィーコのために祭壇画を描いたが・・・ドイツにいる皇帝のもとに送られた」とあるのも根拠としている。ダ・ヴィンチがミラノで描いた祭壇画は唯一『岩窟の聖母』だけなので、「ルドヴィーコのために祭壇画を描いた」とあるのは異なるのだが。

だから1492年か1493年にイル・モーロが同信会から絵を買い上げ、マキシミリアンへ送った。同じ時期、皇帝の宮廷にアンブロージョが滞在していたというのも、その話をもっともらしくしている。

『岩窟の聖母』がルーブルにあるのは1516年にダ・ヴィンチ自身がフランスに持って行ったと通説になっているが、それを示す資料はない。
1528年マクシミリアンの孫娘エレオノーラがフランスのフランソワ1世と結婚し、絵もフランスへ渡りルーブルの所蔵になったと考えられるのではないか。

従って、ロンドン版は、皇帝に贈られた作品の代替品として同信会のために1493年以降ダ・ヴィンチがミラノを離れる1499年までに描かれたコピーだったと考えるのが自然のように思える。そしてその後起こされた訴訟もロンドン版に関するものであった。

と、ここまで書いてきたのだが、以前このブログでご紹介した第三の『岩窟の聖母』(『ダ・ヴィンチ ほつれ髪の女』)もあり、またルーブル版の天使の指がロンドン版の後の時期に書き加えられているのではないか(『ダ・ヴィンチ 岩窟の聖母』)という話しもあって、チャールズ・二コル説が最も説得力があるとはいえ、謎はまだ解明されてはいないようだ。

(つづく)

【参考記事】

monmocafe.hatenablog.com

monmocafe.hatenablog.com