遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

Zero Fighter 地獄への使者

I saw two Zeros!
And next second,I found myself in the fire.
They were the angels of the hell to us.

私は2機の零戦を見た。
その瞬間、私は炎に包まれてしまった。
彼らは、我々にとって地獄への使者だった。
ニューギニア零戦に撃墜されたボーイングB-17のパイロット)

 

8月が終わり、鎮魂の季節は、暑さとともに過ぎた。
戦後、兵士たちの多くは自分たちの戦争を黙して語らなかった。
しかし人生の最後に近づいて、彼らはようやくあの戦争を語り始めた。

彼らにとって「戦争」が、自らの中で「歴史」になるには、それだけの時間がかかったということだ。もちろん、黙したまま鬼籍に入った者たちも多い。

2010年の時点で、零戦の元搭乗員は、82歳~97歳まで約300名が存命であったといいます。彼ら、元零戦搭乗員たちの話の一端をご紹介していきましょう。

私たちの知られざる歴史が、少し扉を開いてくれるかも知れません。

【デビュー】

日本の伝説の戦闘機は昭和15年、「零式一号艦上戦闘機」として当時の大日本帝国海軍に誕生した。昭和15年9月13日、重慶上空が、零戦の初戦闘の場となる。

進藤三郎大尉率いる零戦13機が、約30機の敵編隊と空戦となったが、敵戦闘機27機を撃墜、被害は4機被弾のみであった。

(中国側の記録;被撃墜13機、被弾損傷11機)

これが、零戦不敗神話の始まりである。

 

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1941年、中国戦線における零戦(A6M2) (ウィキペディア

真珠湾

昭和16年、進藤大尉は十四空分隊長としてハノイにいたが、南雲忠一司令官の旗艦「赤城」の戦闘機隊分隊長として転勤を命ぜられた。
12月8日、真珠湾攻撃のためである。

その日一次発進部隊は、零戦43機、九九艦爆51機、九七艦攻89機の計183機、総指揮官は淵田美津雄中佐。

第二次発進部隊は、零戦36機、九九艦爆78機、九七艦攻54機の計168機。
進藤三郎大尉は零戦隊の指揮官を務める。

「ものすごい対空砲火の弾幕でした。地上の飛行機を目標に、飯田大尉機を戦闘に単縦陣で九機が一直線になって突入しました。三度ぐらい銃撃したところで、爆煙で地面が見えなくなったので、ホイラ―飛行場に目標を変更して二撃。ここでも対空砲火はすごかった。飛んでくる敵の曳痕弾を縫うように突っ込んでいったんですからね。・・・

飯田大尉の命令により集合してみると、飯田機と二番機の厚見機が燃料タンクに被弾したらしく、サーッとガソリンの白い尾を曳いていました。・・・飯田大尉は手先信号で『被弾して帰投する燃料がなくなったから自爆する』と合図して、そのままカネオの飛行場へ突っ込んでいったんです。・・・

煙のなかへ消えてゆく飯田機を見送りながら、私は涙が出そうになりました・・」
(「蒼龍」ゼロ戦隊第二小隊長・藤田中尉)

飯田房太郎大尉28歳。

この戦闘で、日本は、米戦艦4隻と標的艦一隻を撃沈、戦艦4隻、その他13隻に大きな損害を与え、飛行機231機を撃墜破する。アメリカ側の死者・行方不明は2402名、負傷者2382名を数えた。
日本側の損害は、飛行機29機、特殊潜航艇5隻、戦死者64名。

【フィリピン・ルソン島

真珠湾に第一弾が投下された10時間後、昭和16年12月8日午後一時半過ぎ、フィリピン・ルソン島の米軍航空基地、イバ、クラーク両飛行場上空に、日本海軍の双発陸上攻撃機106機と零戦85機が殺到した。
この一度の空襲で、フィリピン米航空兵力は、その過半を失った。

米軍は、フィリピンに来襲した日本の戦闘機は、航空母艦から発進したと信じていた。何故なら台湾からルソン島までの距離は約830キロ。
こんな航続距離を飛べる戦闘機は欧米にはなかったのである。

米軍だけでなく、イギリス、オランダ、オーストラリア・・・、連合軍パイロットはほどなく、零戦との空戦が自殺行為であることを思い知ることになる。

「高度4000m付近で、・・P-40が向かってきました。敵機はまたたく間にに私に近づいてきて、格闘戦に入ろうとした。そしたらやってみますとね、零戦のほうが旋回性能がずっといいわけですよ。

たちまちにして敵機の後ろについたんですが、まさに撃とうとしたところで敵機は急降下、・・逃げられてしまいました。・・12月8日はおそらく・・搭乗員の三分の二は戦死するだろうと覚悟していましたが、まさかP-40があんなに性能が悪いとは思わなかった」
(黒沢丈夫大尉。彼は戦後、御巣鷹山日航ジャンボ機が墜落事故を起こした時の墜落現場の自治体(上野村)首長として救難作業の陣頭指揮をとる)

その後、占領したばかりの最前線基地へ零戦隊は進出し、零戦の長大な航続力を活かし、わずか二個航空隊、70機ほどのゼロ戦隊が、広大な東南アジアの制空権を完全に掌握していた。

しかし、三空の飛行隊長・横山保大尉の手記にはこうある。
この順調な進出をしたにもかかわらず、「われわれは、心のなかに一抹の寂しさ、悲しさを抱いていた。それは、今までの戦闘で、いまだ帰らざる戦友たちのことが、その面影が、いつまでも消えることなく、胸に残っていたからであった」

ミッドウェー海戦後】

しかし、昭和17年6月5日のミッドウェー海戦で、日本の主力空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4隻を撃沈され、開戦以来初めての大敗を喫した。オーストラリアからの連合軍の反攻を封じるべく日本は南太平洋・ニューブリテンラバウルを占拠し、ニューギニアポートモレスビーの米航空部隊と熾烈な戦いを繰り広げていた。

ソロモン諸島ガダルカナル島を米軍に占拠され、ヘンダ―ソン飛行場を中心に、ガダルカナルをめぐる総力戦となったのである。ラバウルからガダルカナル島まで1000キロ、ブーゲンビル島ブインから600キロである。

昭和17年10月26日南太平洋海戦。日本は、米空母「ホーネット」撃沈、「エンタープライズ」に損傷を与え、飛行機74機を損失させるが、空母「翔鶴」「瑞鳳」が被弾、飛行機92機、搭乗員145名を失った。ここで、多くの練達の搭乗員を失い、以後劣勢を回復することはなかった。

零戦との1対1の空戦を避け、米戦闘機は、二機ごとのエレメントで一機の零戦に対し二機が連携して戦いを挑んできた。米海軍ジョン・S・サッチ少佐が、グラマンF4F零戦に対抗するための戦法で「サッチ・ウィ―ブ」と呼ばれた。

以後、日本は敗勢への道をたどっていく。

【参考】
零戦21型性能
中島飛行機製「栄」12型エンジン(離昇出力940馬力)
最高速度533.4km/h、航続距離3350㎞(増槽あり)
武装20mm機銃×2、7.7mm機銃×2
爆装30㎏又は60㎏×2

【出典】
神立尚紀 『祖父たちの零戦』 講談社 2010年

【参考文献】
柳田邦男 『零戦燃ゆ』全3巻 文藝春秋
坂井三郎 『大空のサムライ』『続 大空のサムライ
加藤寛一郎 『零戦の秘術』