遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

ベネツィア1000年 「聖マルコ、共和国、自由」

お前と結婚する、海よ。
永遠におまえがわたしのものであるように

(注)12世紀に始まるヴェネツィアの祝祭「海との結婚式」。アドリア海制覇の契機となった元首ピエトロ・オルセロ2世が出陣して行った日、キリスト昇天祭の日の儀式で、金色に塗られた豪華ガレー船上で、元首が海に向って上記のように叫び、金の指輪を海に落として祭りが始まる。

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これは、西ローマ帝国が滅びた後、蛮族の侵入から海へ逃れたヴェネツィア人の物語の紹介です。
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アレクサンドリアキリスト教会がイスラム教徒によって破壊される直前に、2人のヴェネツィア商人が、聖マルコの遺骸を金で買い、見つからないように、豚肉の樽に遺骸を隠してアレクサンドリアから運び出し、ヴェネツィアに持ち込んだ。

ヴェネツィアは、この高名な聖人を祭る教会を建て、その名を冠したサン・マルコ広場が、ヴェネツィアの中心となる。ヴェネツィアを象徴するこの名が、よもや金で買われ、豚肉の樽に入れられて運ばれたとは、多くの観光客も知らないだろう。

この1000年の共和国は、終身の元首を戴いたことで君主制的であり、政治に携るというだけで何の特権もない貴族が議員となる元老院をもつということで貴族制的であり、共和国国会が民主制を代表するという意味で共和国であった。

この君主制、貴族制、民主制のミックスした統治方式が上手く機能し、貴族とは言え何の特権も持たずに海外貿易に従事した後、海軍、政治へと進むキャリアパスが、典型的であった。
元首は世襲ではなく、議会の利益誘導的とならない工夫がされた投票方法で選ばれた。

「多数は多数の横暴に走らず、少数は少数で権力を乱用せず、元首もその地位と名声を利用して君主制に持っていくような動きはしなかった」のである。

人間の良識を信じない統治方式が、かくも長い隆盛の年月をヴェネツィアにもたらした。元首が君主制を意図して起こしたクーデター騒ぎは、1000年の歴史で、信じられないことに一度しか起こっていない。

「人間の良識を信ずることを基盤としていたフィレンツェの共和政体が1530年に崩壊した後も、それからさらに300年近く、人間の良識を信じないことを基盤にしていたヴェネツィアの共和政体は、存続することができたのであった。」

「商売」のために政略は組みたてられ、徒に理想を追うこともなく、現実主義者として、しかもアンチ・ヒーローの国に徹した。だから、騎士道の国フランスを始めとする十字軍すら、自分達の利益のために利用もしたし、キリスト教国でありながらコンスタンティノーブルを亡ぼしもした。

反動宗教改革時に吹き荒れた異端裁判にも冷淡だったし、法王庁が行う司祭任用もヴェネツィア政府が推薦する4人からしか選べなかった。法王庁枢機卿に選ばれれば、いっさいの公職から離れなければならなかった。法王庁の影響力が、共和国に及ばないようにしたのである。
 
「自分は、どこの国でも法王だが、ヴェネツィアではちがう」
「もしも、わたしが法王ならば、ヴェネツィアを破門せずにはおかないだろう」
枢機卿、後の法王パオロ5世;カミーロ・ボルゲーゼ)
「もしも、わたしが元首でしたら、そんな破門は笑いとばすでありましょう」
ヴェネツィア大使、後のヴェネツィア元首;レオナルド・ドナ)
(注)法王は、1606年ヴェネツィア共和国に対し、聖務の全面禁止を通告。ヴェネツィアはこれに服さなかった。時同じくして、法王と元首になったこの二人が言ったように。

異端とされた出版物もヴェネツィアでは売られていたし、各国の官憲から追われていた亡命者も多数逃げ込んでいた。銀行の発祥地であり、複式簿記もここで発達した。オペラも最盛期には狭いヴェネツィアに17もの歌劇場があったという。

ヴェネツィアにはその独断的で専制的な政治形態とはまったく相容れないはずの、個人の自由への絶対の自信が存在する。」ヴォルテール

ヴェネツィア共和国は、レオナルド・ダ・ヴィンチマキャベリも生まなかったかもしれない。だが、この国がその長い歴史を通じて示し続けた、人間が人間たりうる第一のもの、個人の自由を尊重する一貫した姿勢は、著作を残さなかった偉大な思想家(ヴォルテール)に似てはいないであろうか。」

東方貿易路を確保するため、アドリア海を押さえ、コンスタンティノーブルにヴェネツィアの拠点を作って東地中海覇権の足がかりにした。最盛期でも人口15万足らずの国にとっては、陸軍をもって東地中海沿岸地域を征服するわけにも行かず、各拠点となる都市のみをコントロールする。「できないことは、できない」としたのである。

いざとなれば、商船隊も海軍として海賊と戦えるように船、船員構成を工夫し、何よりも東地中海に、安全な定期航路を通した。安全に物品を搭載した商船隊が、航行することそれ自体が国益であったのである。

かの悪名高き第4回十字軍、元首エンリコ・ダンドロ(80歳)がすべて脚本を書き、ビザンティン帝国滅亡後のラテン帝国の君主にもなろうかというところまで行く。さすがに、共和国ヴェネツィアの元首が、専制君主になるわけにもいかず、それはなくなったのだが、彼は結局コンスタンティノーブルで死に、聖ソフィア寺院に埋葬される。

今も、ビザンティン帝国の美術品がヴェネツィアに多いのも、イスラム教徒からの破壊を逃れたのも、この時の略奪のおかげとされている。
高校の歴史教科書的には、十字軍を通じて、ギリシャの文化が入り、後のルネッサンスへ通じたということになるのだが、その実相は、エンリコ・ダンドロ率いる略奪行為だったろうか。

マゼランコロンブスによって開かれた大航海時代にも、トルコとの戦いを通じても、生き延びたヴェネツィア。その情報網はヨーロッパ随一とも言われ、各国の事情にいち早く通じていたとされる。もたらされる情報をもとに、かの有名な十人委員会(米国のCIAみたいな機能を持っている)によって分析され、必要とあらば国会や元老院に諮ることなく素早く対策が実行された。時には暗殺さえも。

しかし、トルコと死闘を演じたクレタ島攻防の17世紀後半の25年戦争によって、国は疲弊した。レパントの海戦で勝利しても、その戦闘の勝利を戦争の勝利に結びつけることができなかった。
海に依拠した貿易よりも、国内の経済基盤がイタリア本国のヴェネツィア領に移るに従って、その文化面の隆盛とは裏腹に経済は下降線を描く。

トルコとの25年戦争を戦った海軍総司令官フランチェスコ・モロシーニは、同時に元首を兼ねる。アンチ・ヒーロの国が、ヒーロを必要とした状況になってしまった。

「アンティ・ヒーローの国が、ヒーローをもてはやしはじめては終りである。なぜなら、英雄待望論は、報われることなど期待できない犠牲を払う覚悟と無縁な人々が、自己陶酔にひたるのに役立つだけだからである。」
(注)対トルコ戦の海軍総司令官フランチェスコ・モロシーニ、元首を兼ねる。公開はされなかったが、銅像まで作られる。こうした例はかつてなかった。

 東地中海を制覇した気概も経済基盤ももはやなく、ナポレオンによって1000年の共和国は、滅びる。イタリア本国ヴェネツィア領でゲリラ戦を戦い、そして、まだラグーン(潟)にこもり、残った184隻の軍船で戦えば、まだ可能性はあったのに、ナポレオンとの戦争は元老院で否決される。もはや、戦う気力がなくなっていたのである。
(注)その後に戦われたトラファルガーの戦い(イギリスVSスペイン)でも、相方の軍船は、それぞれ30隻あまりであった。ラグーンは、船が通れる水路が管理されているので、海上の地図を熟知していないとも簡単に泥沼に入って動きがとれなくなる。だからこそ、難攻不落の都市国家であった。

状況に応じて戦うほどの人物も現れず、元老院議員の経済基盤がもはや地中海貿易にはなかったがゆえに、そうした人を生み出す人材バンクとしての元老院も上手く機能しなくなってしまったのか。第二のエンリコ・ダンドロは現れなかったのである。

「はじめに立てた計画を着実に実行するだけならば、特別な才能は必要ではない。だが、予定していなかった事態に直面させられた時、それを十二分に活用するには、特別に優れた能力を必要とする。」

惜別の銃砲を空へ残して、友軍の船が去ったあと、サン・マルコ広場には民衆の声がこだました。
「ヴィーヴァ、サンマルコ!ヴィーヴァ、レププリカ!ヴィーヴァ、ラ・リベルタ!」
(聖マルコばんざい!共和国ばんざい!自由ばんざい!)

この声こそ、自由独立を1000年の長きに渡って守り、そして滅んだヴェネツィア共和国に対する弔鐘であった。

【出典】
塩野七生 『海の都の物語1~6』 新潮文庫
池上英洋 『イタリア 24の都市の物語』 光文社新書

(追記)オリジナル記事の一部を修正しています。(2019年4月30日)