遥かなる「知」平線

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ダ・ヴィンチ アンギアリの戦い

”Cerca trova”
「探せ、さすれば見つかるであろう」
(「マルチャーノ・デッラ・キアーナの戦い」の壁画に、ヴァザーリ自身によって書かれた文字)

 

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ピーテル・パウルルーベンス 『アンギアリの戦い』 1603年 ルーヴル美術館
ダ・ヴィンチ作 『アンギアリの戦い』の中央部分の模写とされている

 

「征服され、打ちのめされた者は青白く描く。高くあげた眉はひそめ、その上の額は苦痛で深いしわが刻まれる・・・唇はアーチを描くように開いて前歯がのぞき、上下の歯が開いて悲嘆の声がもれている」
ダ・ヴィンチ

フィレンツェ共和国の政庁舎として使われ、現在も市役所として使われているヴェッキオ宮殿は13世紀に建てられた。
その「500人大広間」と呼ばれる大会議場の左壁面にはピサ攻略の絵三枚、右壁面にはシエナ攻略図三枚が、ヴァザーリによって描かれた(1563年)。
フィレンツェ公コジモ1世が依頼したものである。

 

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フィレンツェ ヴェッキオ宮殿 500人大広間

 

このピサ攻略の絵、すなわち「マルチャーノ・デッラ・キアーナの戦い」の壁画の所には、ダ・ヴィンチの「アンギアリの戦い」、シエナ攻略図の所には、ミケランジェロの「カッシーナの戦い」の絵があった。
1504年、この二人に市民会議委員会が依頼したもので、しかしどちらも、未完成のまま残されたのである。

ダ・ヴィンチの絵はその後数十年の間、多くの画家に模写されたが、1555年~1572年のコジモ1世のための宮廷改築で、ヴァザーリによる壁画が描かれたことによって、2つの壁画は失われたのである。

しかし、イタリアの美術史家マウリツィオ・セラツィーニは、尊敬するダ・ヴィンチの絵をヴァザーリは傷つけるはずはないと確信し、2007年11月小型中性子ビーム発射装置を使いヴァザーリの壁画をスキャンした。

その結果、ヴァザーリの壁画の裏にもう一つの壁があり、壁の間には1~3㎝の空洞があることが分かった。ダ・ヴィンチの絵を保存するには十分な空間であり、今も現存しているのではないかと推定されている。

ヴァザーリによる「マルチャーノ・デッラ・キアーナの戦い」の絵の中には、フィレンツェ兵士が掲げる緑色の軍旗の所にヴァザーリの文字でこう書かれている。

Cerca trova”「探せ、さすれば見つかるであろう
果たして、これは「ヴァザーリコード」なのか。

最近見つかった「サルバトール・ムンディ」のように、この「アンギアリの戦い」が、現代の私たちの前に現れる日はくるだろうか。

【アンギアリの戦い】
1440年、アンギアリでフィレンツェ共和国ミラノ公国の間で行われた戦い。アンギアリの橋を巡って争われ、フィレンツェが勝利した。

ルーベンスによる模写】
「アンギアリの戦い」の中心部分は、ルーヴル美術館にあるピーテル・パウルルーベンスの模写によって知られている。1603年にルーベンスが模写した時には、ダ・ヴィンチの壁画は失われていたので、1558年のロレンツォ・ツァッキによる版画を元にしている。

【出典・参考文献】
ビューレント・アータレイ、キース・ワムズリー
ダ・ヴィンチ 芸術と科学の生涯』 日経ナショナル ジオグラフィック社 2009年
佐藤幸三 『モナ・リザはなぜルーヴルにあるのか』 実業之日本社 2011年
ジョルジュ・ヴァザーリ 『芸術家列伝3』 白水社 2011年
ダ・ヴィンチ 『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上・下』 杉浦民平訳 岩波書店 1954年