遥かなる「知」平線

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名もなく墓もなく テンプル騎士団の誕生と悲劇

天国へ行くのに最も有効な方法は、
地獄へ行く道を熟知することである。
マキャベリ

戦略的判断のミスは、十指に余りある
戦術的成功をもってしても救えない。
(ナポレオン)

 

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塩野七生 『十字軍物語 2』 (新潮社) の表紙(一部)

 

2回に渡って、十字軍で勇名を馳せたテンプル(聖堂)騎士団の誕生と悲劇について、塩野七生さんの『十字軍物語 1~3』(新潮社)からご紹介しましょう。

 

中近東のパレスティーの地に第一次十字軍によってイェルサレム王国が建設され、その初代王ゴドフロア、二代目ボードワン1世と続き、1118年からボードワン2世が王国を引き継ぐ。

このボードワン2世のもとをフランス・シャンパニュー地方出身という二人が訪れたという。ユーグ・ド・パイヤンゴドフロア・ド・サンメールである。この二人の他7名の同志と全部で9名の宗教騎士団を結成し、ヤッファからイェルサレムまでの道を防衛させてもらいたいと申し出た。騎士9名でも、1名に付き10名の従卒がいるとして90名の集団となる。

ボードワン2世はこれを喜び、イェルサレム市街東南部の、紀元前のユダヤ時代の聖堂跡を本部として提供した。

これが、十字軍の歴史を語るに欠かせないテンプル(聖堂)騎士団の誕生となる。この名前も、古の聖堂跡に本部を置いたことに由来する。

宗教騎士団及び団員の特徴は次のようであった。

①武器を持って戦う騎士であること。
②世俗の身分を捨て、一生を神に捧げる修道僧であること。俗人の時の資産寄進も義務とされた。
③清貧、神への服従、一生独身の誓いをしなくてはならない。
④異教徒とみれば問答無用で直ちに殺す「異教徒撲殺」(注;テンプル騎士団のみ)
⑤宗教騎士団は、諸侯、王、領主、皇帝、司教の配下には入らない。唯一、ローマ法王の直接の管轄下になる。

こうして、白の胸衣に赤い十字、白いマントに赤い十字の制服を着た戦士集団がシリア・パレスティーナの十字軍国家内に誕生したのである。

 

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遠くヨーロッパの地にイェルサレムへ巡礼に訪れるキリスト教徒たちには、自分たちを守ってくれる彼らの姿は力強い存在に思われ、10年後にはローマ法王から認可され、団員も動産・不動産の寄進も増加していった。

同時期の聖ヨハネ騎士団と合わせて300~500の宗教騎士団でも、慢性的な軍事力不足にあった中近東の十字軍における常設の戦闘集団は、実に頼もしい存在であった。

しかも、イェルサレム総司教にもイェルサレム王にも従う必要がない、事実上の完全独立の軍隊。自主的に判断し、自主的に危険を察知して行動を起こさなければ、この異教徒に囲まれた地では生き延びられない。この独立性こそ、宗教騎士団をして十字軍国家の「剣」にしたのである。

1118年にボードワン1世が死に、十字軍国家が確立してから、1291年のアッコン陥落で最後のキリスト教徒の拠点を失うまでの170年以上にも渡って、最大でも500人の宗教騎士団が、シリア・パレスティーナの最前線で戦ったのである。

 

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そして中でも、テンプル騎士団は、より狂信的で戦闘的、その結末もより劇的かつ悲劇的に終わったことで、現在でも高い人気がある。

テンプル騎士団は、1118年~1314年までの団長は全員、名前が分かっているが、他の騎士は不明である。世俗を捨てた修道僧なので、「名なし、顔なし」で、死んで残るのはファーストネームのみ。

テンプル騎士団の騎士たちは、封建制度では中から下の階層の男たちが多く、無学なものも多かった。墓もなく、「名なし、顔なし」のままで、故郷から遠く離れたオリエントの土となる。

こうした男たちの存在は、西欧のキリスト教徒たちにも知られるようになると、動産・不動産の寄進が増えるようになる。が、彼らは不動産を運営することより現金化して投資、金貸し業をやるようになる。

王や領主、一部にはイスラム教徒へも金を貸し、これが後にテンプル騎士団の悲劇の一因になる。

あまり学の無かった騎士団ゆえ、そのモットーも自作というわけではなく、失敗した第二次十字軍を提唱した聖ベルナールの言葉をそのまま使っている。

イスラム教徒は、悪魔の化身だ。彼らに対しては、解決策は一つしかない。撲滅がそれだ。殺せ!殺せ!そして、もしも必要となったときは、キリストの御名を唱えながら殺されるのだ」

1291年パレスティーナ最後の拠点であったアッコンが陥落し、テンプル騎士団の生き残りはキプロスに逃れたが、キプロス王は、尚パレスティーナへの進出を目論む騎士団を疎んじたこともあって居ずらくなり、1306年、出身者の多かったフランスへ帰っていくことになる。

そして、時のフランス王フィリップ4世(美男王)による謀略が、かれらテンプル騎士団に忍び寄るのである。ここに史上有名な、テンプル騎士団の悲劇が始まる。
(続く)