遥かなる「知」平線

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魂はイェルサレムの空へ テンプル騎士団の誕生と悲劇

天知る、地知る、我知る、汝知る。(四知)
(注)二人だけの秘密なんてないんだよ、天と地が知っているからね。(モンモ)

「道」は秩序である。
「権力」は、秩序の「標識」だ。
「君主」は権力の場における標識の具象である。だから……
もしこの世に秩序が必要であるならば、疎ましくも権力を、
愚か者でも君主を存在させなければならない。
韓非子

 

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塩野七生 『十字軍物語 3』 (新潮社)の表紙(部分)

 

フランス王フィリップ4世の謀略は、一人の犯罪者の告発から始まった。
この男の牢仲間の一人で、テンプル騎士団から追放された元騎士が語った話としてこう告発したのである。

テンプル騎士団への入団式は、騎士団の要職者を前にして、神を冒涜し、十字架に唾を吐き、上位者には絶対服従し、男色行為まで許容すると誓って入団を許可されるのだ、と。

そしてこの話を、同じくテンプル騎士団を追放された三人の元騎士と名乗る者たちの同じ証言で、確実なことだとされた。

1307年フランス各地で、騎士団の関係者全員、騎士、従卒、騎士団付きの司祭、使用人に至るまで1万人以上が一斉に逮捕された。その後、多くは釈放されたが、騎士たちは残された。

10月13日(金)、団長ジャック・ド・モレーと共に、パリにいた138人の騎士が逮捕された。
逮捕された騎士たちを待っていたのは、想像を絶する凄まじい拷問であった。

骨が見えるまでの鞭打ち、皮膚を剥がした後から火で焼く、無理に開けさせた口から大量の水を飲ませるなどの拷問を一週間も続けた。一月までの3カ月間で、134人までが罪状を認め署名した。

フィリップ4世は、拷問を含め、尋問と裁判の全てを異端裁判所に一任した。俗界の君主が裁くのではなく、聖職界が裁くとしたのである。世俗の王である自分が裁いたのではない、と。

火あぶりの刑を宣告するまでが異端裁判所、刑の執行は王候の兵士なのであった。異端裁判所の出した判決に従って、刑を執行しただけなのだと言いたかったのだろう。

 

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しかしなぜ、フィリップ4世は、かくもテンプル騎士団を始末したかったのか。

アッコン陥落以降、西欧では新たな十字軍遠征を求める声が高まっており、それを率いるのはフィリップ4世しかないという空気が広まっていた。テンプル騎士団には、その新十字軍しか生きる道がなく、しかしフィリップ4世には、その気は全くない。彼にとって騎士団はじゃまな存在であった。

フランス王家は、極端な財政難に苦しんでいた。一方で、今や騎士団には莫大な資産があった。フランス王家は、テンプル騎士団から多額の借金をしていたのである。

200年近くにも及ぶ十字軍の失敗の責任を誰かに転嫁しなければ、フランス王がそれをかぶる危険があった。何しろ、第二、七、八次とフランス王が十字軍を率いて失敗したのだから。

テンプル騎士団の127にも及ぶ告発理由の中に、騎士団はイスラムと通じて十字軍国家を彼らに売り渡した張本人であるとしたのである。騎士団が営んでいた金貸し業の客にイスラム人がいたからである。十字軍の失敗の責任を騎士団に転嫁したのだった。

捕われた団長のジャック・ド・モレ―は64歳だった。22歳で騎士団に入り、27歳で聖地へ赴き、40年近く過酷な異教徒との戦いをしてきたのだ。モレ―を含め騎士たちは、戦地でも生き抜いた歴戦の戦士たちである。それが、過酷とはいえなぜこうも簡単に拷問に屈したのか。

七生さんはこう言う。
「自分たちの存在理由をすべて失ったしまった男たちの、どこにも持っていきようのない喪失感ゆえと。

テンプル騎士団は、民衆に人気が高かった。それゆえ、フィリップ4世は、猛烈な宣伝工作をおこなう。おどろおどろしく汚れた騎士たちを描いた絵が、民衆向けに大量に作られ配布されたのである。

しかし、直接テンプル騎士団を管轄していたのはローマ法王だから、なぜローマ法王は騎士団を守るべく行動しなかったのか。

ローマ法王クレメンス5世は、フランス王の拘束下にあったのである。
1306年ローマ法王がフランスに移住されられたいわゆる「アヴィニョン捕囚」である。この翌年に騎士たちが逮捕されたのだった。

 

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1312年、クレメンス5世は「テンプル騎士団の壊滅とその全面的な解消」という教書を公表し、騎士団への入団を望むだけで罪、制服を持っているだけでも罪、名を口にするだけでもキリスト教徒のやるべきことではない、としたのである。

1118年に創設されたテンプル騎士団は、ローマ法王がその解消を宣言した1312年に文字通り「絶滅」したのである。

騎士団のフランス国内に所有していた資産はすべてフランス王の金庫へと没収された。そのうち1/8が異端裁判所へ。フランス国内の不動産は売って金を手にし、国外の不動産は他の騎士団に買わせてその金も手にした。

もっとあるに違いないと資産を探したが労苦は無駄に終わった。
これが、「テンプル騎士団の財宝」伝説を生むことになったのである。

フランス各地で火刑となった騎士たちもいたが、ほとんどの騎士たちはすでに牢内で死んだ。
1314年3月18日、それまで生きていた最後の二人の騎士に有罪刑が執行された。最後の団長ジャック・ド・モレ―と一人の老騎士が、生きたまま火あぶりの刑に処せられたのである。

 

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パリ、シテ島にあるノートルダム教会の裏手の広場が刑場となった。
騎士団絶滅の事実を、民衆に具体的な形にして見せたのである。
残忍な見世物として。

聖地に打ち立てた十字軍国家を200年近く支え、この間に2万人もの団員を犠牲にしてきたテンプル騎士団は、「異端裁判所」で裁かれ、拷問で多くは牢内で、また火あぶりの刑で死んでいったのである。

テンプル騎士団のこの裁判は、ジャンヌ・ダルク裁判同様、カトリック教会と王が組んだ「でっち上げ裁判」だった。ジャンヌは名誉を回復され聖女にも列せられたが、テンプル騎士団に関しては、ローマ法王庁は今も、黙して語らない。

最後の火あぶり刑が行われた1314年、火刑から1カ月後の4月20日、50歳にもならずに法王クレメンス5世は死んだ。
同じ年の11月29日にフィリップ4世死亡、46歳、心臓マヒであった。

神はいたのかも知れない。

【出典】塩野七生 『十字軍物語 1-3 』 新潮社