勇将、知将、その名はイベリン
要するに、「戦闘(バトル)」とは、
それに参加する兵士たちを率いる人の、
能力と気概にかかっているのである。
(塩野七生)
第一次十字軍によって創られたイェルサレム王国も、その後イスラム側の攻勢に晒される。
しかし、十字軍側は、数多くのクラク・ド・シュヴァリエに代表される城塞を起点にして、イスラム側に対抗する。ヨーロッパからの第二次十字軍は失敗し、兵力不足は解消されない。
十字軍時代の特産物とされる宗教騎士団。自主的に判断し、自主的に行動する独立した十字軍国家の「剣」。新たな十字軍が派遣される間の、攻勢を強めるイスラムの盾となった主な宗教騎士団には、聖堂(テンプル)騎士団、病院(聖ヨハネ)騎士団がある。
寡兵を補う数多くの城塞と宗教騎士団が、第一次十字軍後の、イェルサレム王国を守ったと言える。
しかし、目標をイェルサレム奪還に絞ったイスラム側には、ヌラディン、サラディンという有力な武将が現れる。特に、サラディンは、十字軍国家を滅亡の危機に追いやるのである。
1187年、サラディンは、4万の軍勢を集結し、ハッティンで、十字軍側1万8千と対峙しこれを破る。敗れた十字軍側の要人で逃げ切ったのは、トリポリ伯のレーモン3世とバリアーノ・イベリンだけであった。
(塩野七生 『十字軍物語 2』より)
そして、ついにサラディンは9月20日、イェルサレムの城壁の前に立つ。
そこには、6万人の人間が住んでいた。一万5千人がヨーロッパ由来の人たち(フランク人)で、残り4万5千人が、東方キリスト教徒と、ユダヤ教徒、イスラム教徒のオリエント人であった。
そこには、47歳になったバリアーノ・イベリンがいたのである。
サラディンが、ただ一度敗北を喫した「モンジザールの戦闘」で敢闘し、ボードワン4世を支えた人物。
あのハッティンの戦場から、しかも敵の攻撃が最も集中する後衛にいながら、部下を率いて見事脱出した、あのイベリンである。
しかし、少なくとも3万で攻めてきているサラディンに対し、イェルサレム防衛陣の騎士は60人。イベリンは、市内にいる16歳以上の男子全員を騎士に任命し、60人のプロとそれ以外のアマチュア集団を見事に組織するのである。
一歩も引かず5日間、城壁は一箇所たりとも破られなかった。
しかし、城壁の下までの坑道を掘られ、イベリンはサラディンに会談を申し入れる。
その会談で、強者であるサラディンを、イベリンは脅迫したのである。
あなたは早晩、イェルサレムを手にする。しかし、今のままでのイェルサレムではないぞ。我々は最後の一人が死ぬまで戦う。市内の5千人のイスラム教徒全員を殺す。さらに、イスラムのあらゆる聖所、岩のドームからアル・アクサから祠に至るまでを破壊しつくす。
サラディン、あなたは、イェルサレムの征服者にはなるだろう。
だがそれは、破壊され炎上し何一つ残っていない、キリスト教徒だけでなく、イスラム教徒の大量の血ぬられたイェルサレムの征服者にだ。
サラディンは黙ってしまった。
そこで、イベリンは口調を変えて言った。
英国王ヘンリー2世が、聖地防衛資金として送ってきた3万ディナールの金を、イェルサレムの「フランク人」たちの身受け代に使おうと交渉に入ったのである。
それで7千人は救い出せる。
残りは、イベリンの私財を投げ出し、イェルサレムの金をかき集め、一人でも多く救い出すつもりだと、言った。
これに、サラディンは感激してしまう。
1千人分の身代金は自分が払おう、と。
老人の身代金は無しで、退去を許可し、未亡人や孤児には、身代金無しに、当座に必要な金まで自分のポケットマネーから与えて、退去を許可したのである。
総司教は700人分、イベリンも500人分の身代金を出し、こうして「奴隷」にされた「フランク人」はほとんどいなかったと、伝えられている。
サラディンはしかも、逃げていく難民にたいする略奪行為を兵士たちに禁止したのであった。
1187年10月9日、サラディンはイェルサレムに「解放」者として入場するのである。
サラディンは、1年間で、イェルサレム王領のすべてを消し去り、十字軍側に残ったのは、アンティオキアとトリポリ、ティロスのみになってしまったのである。
ヨーロッパから遠路やってくる十字軍は、それだけで多くの負担を強いられ、兵力の消耗は避けられない。サラディンのような人を得れば、地の利があるイスラムとの戦ば圧倒的に不利である。
それでも、寡兵となっても戦いを切り抜け、一人でも多くの「フランク人」を救おうとしたイベリンの知恵と胆力には、サラディンとて感服したのではなかったか。
イベリンは、圧倒的に不利な状況下で、それでも勇敢に戦い、多くの同胞を救おうと、知恵を絞って交渉する傑出した人物であった。
そして英雄は、英雄を知っていたのである。
【出典】 塩野七生 『十字軍物語 2』 新潮社 2011年