遥かなる「知」平線

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マルタの鷹ラ・ヴァレッテ わが武器は「気概」のみ

もどってムスタファに言え。
ムスタファが手にすることのできるマルタの土地は、
ムスタファの墓だけである。
(ラ・ヴァレッテ)

 

42年前のロードス島攻防戦で、ロードス騎士団はトルコ軍に敗れた。
「武器を持っての名誉ある退去」を許可されたとはいえ、同じ歳のレイマン(28歳)に島を追われた。

それから8年、クレタ島シチリアメッシーナナポリチヴィタヴィッキアと騎士団は流浪の歳月を過ごさねばならなかった。

スペイン王カルロスに、タカ狩りの鷹を年に一羽献上するならば、「マルタならば与える」と。スペイン領でもなく、スペイン兵が駐屯しているわけでもないのに、孤島を「与える」といわれた。
流浪の、他国には少々厄介者の騎士団にとって、このマルタしかなかったのだ。

聖ヨハネ騎士団は、ロードス騎士団からマルタ騎士団となったのである。
ジャン・ド・ラ・ヴァレッテ・パリゾン、36歳の時であった。

島には全く何もなかった。岩だらけの土地。少ない水を濾過して貯めるしかなく、夏はアフリカからのシロッコ(南東風)で40度にもなり、冬はエストラーレ(北西風)が吹き荒れる不毛の地。

岩だらけで耕作には不適、漁業もイスラムの海賊に拉致されるためできず、1万人足らずの島民は牛や山羊を飼うくらいであった。

それから、35年、教会を建てた。病院も騎士館も作った。
今のマルタに残る華麗で豪華なバロック建築ではない。

騎士たちは、過酷な環境で、対イスラムの最前線にあって、地中海イスラム海賊を率いるドグラ-と戦いながら、同時代のヨーロッパの国々の華やかな宮廷で生きる同類とはちがって、いかなる環境にも耐えうる精神と肉体の持ち主に変貌していたのである。

1565年5月、騎士団長ラ・ヴァレッテは、この時70歳。
ロードス以来のスレイマンと再び対峙していたのである。

 

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左;ラ・ヴァレッテ
I.C.Lochhead ”The Siege of Malta,1565” 1970

右;スレイマン(現代アメリカの議場の浮き彫り)

【戦力】

トルコ軍;兵士3万(主力はイェニチェリ軍団6千)、船団200隻の合計約5万。
陸上軍指揮;ムスタファ・パシャ
海上軍指揮;ピアリ・パシャ、海賊首領ドグラ-
マルタ島;騎士501人、志願兵4千、島民5千、合計約9600人、ガレー船5隻

ラ・ヴァレッテは、ヨーロッパ各国に支援を求めた。スペインのフェリペ2世だけが1万6千の支援を言ってきたがいつ来るかわからない。

この援軍のためにシチリアからの海路を確保するため、騎士団の保有する5隻のガレー船にそれぞれ20人の騎士を乗せたから、島を守る騎士は400人となってしまった。

他の国は、小さなマルタ島が、トルコの大群と戦えるとは思っていなかったため、支援してきた国は少なかった。

【戦略】

小さな島で、少ない戦力で、トルコの大軍といかに戦うのか。
ラ・ヴァレッテは、不毛の地マルタを、却って有利な条件とするのである。

・幾重にも重なる防壁で大砲を防ぐ

・トルコ軍は、補給線が長く、近くに大軍に補給する基地はない。マルタに水はない。
生活水準が高いから長期戦に耐えられない。船で運んできた食糧だけで5万人を食べさせ、攻撃を続けなくてはならない。

・防御の全てを、半島の先端を城塞化した3箇所(聖エルモ城塞聖アンジェロ城塞聖ミケーレ城塞)に集中し、一つが陥ちても次、次が陥ちてもその次と守り切って、援軍が来るまで耐える。

これが、彼の戦略であった。
中世に華やかだった騎士の装いを捨て、身につけるのは、頭部を守る兜と腕なしの胸甲。そして、「不屈の意志と地道な忍耐」だけを、その身にまとうのだ。

 

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マルタ城塞

 

【戦闘】

1565年5月18日、3月22日にコンスタンティノーブルを出発したトルコ軍193隻が、島の東南にあるマルザシロッコに上陸し、10日以上かけて大砲50門、10万回砲撃可能な砲丸・火薬、食糧などを陸揚げした。

5月31日、海上からの砲撃に加え、陸側からの攻撃を3万の兵で、騎士ブローリオ以下52名の騎士と800名の兵士が守る聖エルモ城塞に加えた。

連日の激しい攻撃に、ついに6月23日、聖エルモ城塞陥落。
生き残った10名は、生きながら皮をはがれ丸太ににくくりつけられて海に流されたのである。

 

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聖エルモ城塞の戦勝記念堂

 

ムスタファ・パシャが送った使節は、ラ・ヴァレッテに言った。
「このようになりたくなければ、武器をもったままでの退去を許すから、それを受けられよ」

ラ・ヴァレッテは返した、
もどってムスタファに言え。ムスタファが手にすることができるマルタの土地は、ムスタファの墓だけである」と。

短期決戦を狙ったトルコ軍は、一か月たってもマルタを攻略できなかった。
これに、トルコ側が揺らぐ。ムスタファ・パシャとピアリ・パシャが言い争うようになる。しかし、マルタ防衛側も戦力は確実に減り、未だ援軍は来ない。

8月、シロッコにトルコ軍が苦しめられる。水が欠乏し、疫病の犠牲者が増えてくる。
一か月どころか、すでに3か月も釘づけになってしまっていた。

聖アンジェロ城塞の海側から城壁を上らせるが、マルタの農民兵に首を刈られ、投入した1万5千~2万の兵の1/3を失う。しかし、守備側も息絶え絶えであった。

マルタの援軍6千がシチリアから来るのを、「1万6千が来る」とトルコ側に矢文を打ち込んだ。トルコ軍は既に、5万の兵のうち2万を失っていたところにこの情報で、戦意を喪失したのである。
偽情報とわかり一旦は戻るものの、9月13日に蹴散らされるや、退却していく。

【勝利】

島に着いた援軍が見たものは、各所で崩れ落ちた城壁、大砲の直撃を受け形を成していない城塞、すさまじいまでに破壊された石塊の間からあらわれた、汚れ、傷つき、血がこびりつき、地獄を見た者の形相をした騎士と兵士の姿であった。

こうして、ラ・ヴァレッテ率いるマルタ騎士団は、泥と血にまみれて、5倍強の、島の騎士400とトルコ主軍イェニチェリ軍団6千の比較ならば15倍のトルコ軍相手に、島を守りきったのである。

古い記録によれば、防衛側の死者4千。騎士の死者は、240とも300ともいう。その間をとって270としても、島を守った400の騎士のうち実に70%が死んだのである。

この勝利はヨーロッパ各国の称賛をうけ、ヨーロッパ中の教会の鐘が鳴った。
ラ・ヴァレッテは、ローマ法王から枢機卿の地位を贈られたが、丁寧に断り、その後、島の再興に力を尽くした。

3年後の1568年、ラ・ヴァレッテは、イスラム海賊とトルコとの戦いに身を捧げた過酷な生涯を、マルタの地で閉じたのである。そして、対トルコ戦の勝利を祝って建てられた、ヴィクトリア教会に葬られた。

マルタの首都は、「ヴァレッタ」と呼ばれているのも、彼の名前に由来する。

その後、マルタ騎士団は、1798年、ナポレオンにマルタを追い出されローマに行くが、ラ・ヴァレッテの墓だけは、そのままマルタに残っている。

勇者は、死して尚、自らの地マルタを守護しているのである。

【出典】塩野七生 『ローマ亡き後の地中海世界 上・下』 新潮社 2008年、2009年