遥かなる「知」平線

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ハプスブルク家 皇女エリザベート

ハプスブルク王朝が滅亡しなければ、中欧の諸国はこれほど
永い苦難の歴史を経験しなくともすんだであろう
チャーチル

 

女帝マリア・テレジアマリー・アントワネットの母)以降、ハプスブルク家の主な人々の家系図には、二人のエリザベートが出てきます。

一人は、皇帝フランツ・ヨーゼフ(1830-1916)の妻、皇妃エリザベート(1837-98暗殺)、もう一人は、ヨーゼフの息子ルドルフ皇太子(1858-89自殺)の娘、皇女エリザベート(1883-1963)。

今回の話しは、ハプスブルク家最後の皇女エリザベートの話しになります。

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エリザベートは、帝国滅亡から大戦後の中・東欧動乱を経た冷戦期中までの、ほぼ19世紀末~20世紀半ばすぎまでの現代史を生きた。

第一次大戦後の帝国崩壊、そして第二次大戦を経て、オーストリアが東西冷戦の狭間にあって苦悶する現代史である。
オーストリアナチスドイツに占領され、館も接収されて取り調べを受けた時、彼女は取り調べ官にこういったという。

「父は、ハプスブルグ家皇太子ルドルフ、祖父は皇帝フランツ・ヨーゼフ」
取調べ官は、思わず姿勢を正した。

若い時の結婚に失敗し、最後は貧農出身の社民党の運動員ベツネックと結婚する。
ベツネックは、ナチスに捕えられたが、戦後ドイツの収容所を出た後に、大統領レンナーによって会計検査院を任され、オーストリア内のドイツ資産の領有をめぐって、ソ連との交渉にあたった。
エリザベートが離婚問題で困っている時に助けてくれたことがキッカケで知り合ったのだった。

帝国崩壊と二つの大戦、そして冷戦時を生きた皇女。
住んでいる館は、ドイツ軍、ソ連軍、フランス軍に接収され、軍靴に踏み荒らされた。
ソ連兵はテーブルクロスで靴を拭いたという。

避難先で狭い家に借り住まいをしながら、天国と地獄を二つながら経験する人生であった。それでも、ハプスブルグの皇女としての誇りを失わずに生きる。

身長180㎝を超え、数ヵ国語に堪能で、祖母譲りの美貌、宮中に華々しくデビューした皇女であったのに、・・・・、子供の親権を巡って離婚した夫との裁判に負けるが、裁判所の決定に従わず子供を守った。
近くの住民や社民党員が彼女を助けて、子供を奪いにきた警察を追い返す。
館を接収にきたドイツ軍と一人で立ち向ったりもした。

戦後10年してオーストリアが独立し、やっと自宅に戻ったが、1989年の東欧自由化を見ることなく、1963年3月16日に80歳で世を去る。

3匹の立派なシェパードが彼女を守るようにして寄り添い、近づくものを寄せつけなかった。そして、生前エリザベートに頼まれていた獣医は、その依頼を断っていたのだが、結局3匹のシェパードを「死の旅路の道連れ」とする。

彼女の死後、館にあった絵画300点その他宝物類は、散逸を恐れたエリザベートの遺言により、全て各美術館、博物館に寄贈され、遺族には渡らなかった。資産にして200~300億円はあったとされている。
そのおかげで、私達もハプスブルグ展で当時の絵画等を見ることができる。

彼女は、訪れる人の絶えないハプスブルク家歴代の柩が納められているカプチーナ教会ではなく、人の行き交うことのない郊外のひっそりとした墓地にペツネックとともに葬られている。遺言により、墓石には名前も碑銘もないという。

多民族国家であったオーストリア=ハンガリー帝国は、第一次大戦後のアメリカ大統領ウィルソンが提唱した民族自決主義によって亡んだ。ウィルソンによって、ハプスブルク家は亡ぼされたとも言われた。
しかし今はまた、多民族国家ハプスブルク家の統治が再評価されているらしい。

ハプスブルク王朝が滅亡しなければ、中欧の諸国はこれほど
永い苦難の歴史を経験しなくともすんだであろう
チャーチル

忠実な召使の一人は次のように書き記している。
「高貴なお生まれで、苦難に満ちた動乱の時代ゆえに、この世では安らぎはありませんでした。どうか静かにお眠りください。」

【出典】塚本哲也 『エリザベート 上下』 文春文庫 2003年