遥かなる「知」平線

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佐藤賢一『ナポレオン①~③』集英社2019年

あなたは夢です。
ときに皆の救いであり、あるいは皆の希望です。
物語や神話でなく、実際に生きた人間のなかにあっては、
あなたのような英雄は本当に少ないのです。

ナポレオンの遺骸がパリに帰還したとき、セント・ヘレナでナポレオンの秘書だったラス・カーズの独白
佐藤賢一『ナポレオン③転落篇』(集英社2019.11)

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佐藤賢一『小説フランス革命の最後の12巻目が発行されたのが2013年9月。
それから6年が経過して、続編ともいうべき『ナポレオン』全3巻が2019年11月までに刊行された。

ロベスピエールが断頭台に消えても、フランス革命は終わらなかった。
革命に反対し干渉するイギリスをはじめとする欧州諸国と、フランスは一人戦わなければならなかった。
フランス革命の後半をナポレオンは一人で戦い欧州を席捲し、結果的には敗れた。

しかし、本当にそうなのかな、と思う。
結局、王政復古となったナポレオン後のブルボン朝は、1830年7月革命で倒れた。
数々の封建諸制度(アンシャンレジー)を葬り、民法など革命の成果を「自由、平等、博愛」の理念とともに近代にもたらし、封建制の桎梏から人々を解き放った人びとの一人にナポレオンは連なっている。自ら皇帝となりながらも、である。

16歳で少尉任官し、51歳でセント・ヘレナで死ぬまでの35年をフランス革命にその生涯を捧げた。
そして現代、自由世界に生きる私たちも、間接的にではあってもその恩恵の一部をナポレオンに負うていると言っても過言ではないように思う。

佐藤賢一
『ナポレオン①台頭篇』集英社2019.8)

ナポレオンが1769年8月15日にコルシカ島に生まれ、1774年5月にルイ16世が即位してから、フランスは革命の只中に投げ込まれていくことになる。
ナポレオンも1785年9月に士官学校卒業後に砲兵少尉に任官(16歳)、以降フランスの革命とともに軍歴を重ねていくことになる。
コルシカ島独立運動にかかわり、島を追われるが、砲兵少将として弱冠24歳の将軍誕生となった。ロベスピエールの失脚で逮捕されるも、王党派ヴァンデミエールの蜂起を鎮圧、その後ジョゼフィーヌと結婚し、1796年4月から二年弱のイタリア遠征でオーストリアとの戦争に悉く勝利を収めた。

ミュラをはじめとする部下たちの人物造形も生き生きと描かれ、読者は、英雄ナポレオンの冒険を堪能するだろう。

『ナポレオン②野望篇』集英社2019.9)

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フランスに敵対するイギリスに対して、インドとイギリスの通商路を抑える目的で、エジプト遠征を行う。
エジプト制圧、トルコ軍に勝利するも、アッコン攻略失敗、アブキールの海戦で英ネルソン提督に敗れる。
帰国後、1799年11月ブリュメール18日のクーデタ共和国執政に就任し12月に執政政府発足。
1804年5月帝政を宣言し、皇帝となる(35歳)。
1805年10月トラファルガーの海戦ネルソン提督の英海軍に敗北するも、12月のアウステルリッツ三帝会戦オーストリア、ロシア同盟軍に勝利。これにより、オーストリア、南ドイツ16か国(ライン連邦)を従えることになった。

軍人から皇帝へ、権力の座へ上り詰めたナポレオンは、イギリスをはじめとする反革命勢力の国々と戦わなければならなかった。戦いに勝ち続けなければ、フランス革命もまた潰えるのだ。

『ナポレオン③転落篇』集英社2019.11)

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1806年10月プロイセン遠征、11月ベルリン勅令(大陸封鎖令)。
ロシア軍と三度戦い勝利し、1807年7月ロシアとティルジット和平条約締結。
1808年12月スペイン制圧。
1809年4月~7月再びオーストリアと戦い、10月ウィーン和平条約
ジョゼフィーヌと離婚し、1810年4月オーストリア皇女マリー・ルイーズと結婚、翌1811年3月皇太子誕生(ローマ王の称号を与えられる)。

1812年8月~11月ロシア遠征失敗、これを機に各国が対フランス同盟を強化。
1814年3月パリ陥落。4月退位宣言。5月エルバ島へ追放。
1814年9月~1815年6月ウィーン会議
1815年2月エルバ島脱出、3月復位
1815年6月ワーテルローの戦いで、イギリス、プロイセンら同盟軍に敗北。退位宣言後の7月パリ陥落。
1815年10月セント・ヘレナへ追放。

1821年5月5日死去(享年51歳)
1830年7月王政復古後のブルボン王朝崩壊(7月革命
1840年12月15日ナポレオンの遺骸パリに帰還(アンヴァリッドに安置)

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ナポレオンの息子(ローマ王、ライヒシュタット公

ナポレオンにはマリー・ルイーズとの間に息子(ローマ王)がいた。
智勇に優れ21歳で夭逝したが、メッテルニヒは彼をウィーンから出さなかった。
生きていればヨーロッパに多大な影響を及ぼしたであろうと言われた彼の遺骸が、ナポレオンの傍らに移されたのが1940年。
ナポレオンのパリ帰還の100年後のことである。

現代、私たちは英雄を見ることはほとんどないと言っていい。
少尉任官後の35年間をフランス革命に捧げ、反革命周辺諸国と戦い51歳で死んだ英雄の生涯を、読者は手に汗を握りつつ読むに違いない。