遥かなる「知」平線

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ヴィクトリア女王とアレキサンドラ王妃

たとえ天国から天使が舞い降りてきたとしても、
あの年であそこまで完璧に振る舞うことはできまい
ウェリントン公爵、初の枢密顧問会議に臨んだ18歳のヴィクトリア女王を評して)

 

ロンドン中央部のトラファルガー広場の正面を見据えている国立美術館がある。
イギリスが世界に誇る美術品の宝庫とされ、ラファエロレンブラント、フランス印象派などの名画が展示されている。

その傍らにもう一つの美術館がある。国立肖像画美術館
ヴィクトリア時代の1856年に設立され、イギリス人だけの11000点もの肖像画(写真、彫刻を含む)が、収集されてきた。

なかでも、1066年ノルマン王朝が成立してからのイギリス王室の歴代国王、女王たちの肖像画が、イギリスの歴史そのものを物語っている。
2枚の肖像画を紹介しましょう。

 

ヴィクトリア女王在位1837-1901年

伯父ウィリアム4世が亡くなった朝、叔父カンバーランド公爵、メルバーン子爵(女王最初期の首相)、ウェリントン公爵(野党保守党の貴族院指導者)、サー・ロバート・ピール(保守党の下院指導者)らに囲まれて座り、枢密顧問会議を初めて主宰することになった18歳のヴィクトリア女王である。

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ディヴィット・ウィルキー『ヴィクトリア女王の最初の枢密顧問会議』(部分) 1838年

 

「私はまったく神経質にならなかった。むしろ終わった後に、みながホメテくれたので満足した」(ヴィクトリア女王

ウェリントン公(注)は、「たとえ天国から天使が舞い降りてきたとしても、あの年であそこまで完璧に振る舞うことはできまい」と感嘆した。
(注)ウェリントン公;かのナポレオンワーテルローの戦いで破った。

この国の黄金期、「ヴィクトリア時代」を予感させる絵となった。


【アレキサンドラ王妃】エドワード7世妃、ジョージ5世の母

1914年6月28日サラエボハプスブルク家の帝位継承者フランツ・フェルディナンド大公夫妻がセルビアの青年に暗殺された。第一次大戦の勃発である。

セルビアの背後にヴィクトリア女王の孫アレクサンドラが嫁いだニコライ2世のロシア、セルビアと対立したオーストリアの背後にウィルヘルム2世(母親がヴィクトリア女王の長女ヴィクトリア)のドイツ。

そして対独参戦したジョージ5世ヴィクトリア女王の孫)のイギリス。
ビクトリア女王の孫たちの戦争となったのである。

イギリスでは、ドイツ憎しの機運のなか、セント・ジョージ・チャペル礼拝堂に掲げられていたドイツ王候紋章旗を外し、王朝名もドイツ系のサックス・コーバーク・ゴータ朝からウィンザー王朝へと改められた。

 

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フランソワ・フラマング 『アレキサンドラ王妃』 1908年

 

ドイツ皇帝たちの紋章旗を外すよう訴えたのは、ジョージ5世の母アレクサンドラ王妃と言われる。デンマーク王女であった彼女は、実家のデンマーク王国プロイセン=ドイツに敗れ、領土も奪われたということがあったので、そうした言動に及んだとされる。

絶世の美女として知られ、かのハプスブルク家の皇妃エリザベートがイギリス訪問時に一番会いたがっていたという人であった。

つい先日、ロイヤルウェディングがあったばかりだが、ウィリアム王子夫妻の肖像画もまた、この美術館に展示されることになるのだろうか。

【出典】
君塚直隆 『肖像画で読み解く イギリス王室の物語』 光文社新書 2010年