遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

ライヒシュタット公爵 あるいはローマ王

いろいろと深く考え、学問をすることによって自分の中に
一つの世界を創った時、人は静かな大海に船出できるのだ。
ライヒシュタット公爵 ローマ王)

この若者が、重荷になる時代がくることを怖れる。
(仏 ルイ18世)

 

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ローマ王(ライヒシュタット公爵)1811.3.20-1832.7.22
トーマス・ローレンス 『ローマ王(ライヒシュタット公)』 ハーバード大学・フォッグ美術館


この絵の子は誰だかおわかりだろうか。
ライヒシュタット公爵(ローマ王)という人なのですが、誰かに似ていると思いませんか。そう、かのナポレオン・ボナパルトの息子なのです。

ナポレオンの二番目の妻、ハプスブルク家マリー・ルイーゼとの間にできた一人息子で、生まれてすぐローマ王となった。
ハプスブルク家マリー・ルイーゼは17歳でナポレオンに嫁いだ(1810年)のだが、こんな逸話がある。

花嫁がどんな容姿の人なのか早く知りたいナポレオンは、マリー・ルイーゼに
贈り物を届けた軍曹を呼びだして聞き出そうとした。

「花嫁はどんな感じかね」
「はい、若くて新鮮で、感じがいいかたであります」
「どんなスタイルか」
「はい、オランダの女王様のようであります」
「髪は?」
「ブロンドです。オランダの女王様のようであります」
「肌の色は?」
「はい、バラ色ですべすべしておられます。オランダの女王様のように」
「ではオランダの女王様に似ているというのかね」
「いえ、まったく違います」
「・・・・・・・」

マリー・ルイーゼがどんな人なのか、いよいよ本当のことを言わなければと思った
仏のオーストリア大使は、ナポレオンにこう言ったという。

「閣下、第一印象はお忘れください。あの方は本当に満足するに足る奥様です」

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ナポレオン・ボナパルト

一度は、ナポレオンによって家族とともにウィーンを追われながらも、「売られた花嫁」としてフランスへ嫁ぐが、彼女にとってはそれでも幸せな数年であったという。

1812年モスクワ遠征失敗以降、ナポレオンは没落の運命をたどる。
ナポレオン流刑の後、マリー・ルイーゼは、一人息子のナポレオン2世(ローマ王)
とともにウィーンへ帰るが、メッテルニヒらが中心となったウィーン会議で、ナポレオン後のヨーロッパ体制が決ると、まだ小さい息子をウィーンに置いて、イタリアのパルマへ女王として赴くことになる。

が、ナポレオンの妻、ナポレオン2世の母として、同時に対仏同盟の中心となった
オーストリア・ハプスブルグ家の皇女として、ヨーロッパの国際政治に翻弄され、
引き裂かれた人生であったといっていい。

まだ22歳なのに、行動は常に政治的意味を帯びるために、自由にならない。

一人ウィーンに残されたローマ王も、国際関係の「火種」になりかねないと、オーストリアから出ることができず、宰相メッテルニヒに監禁同然の人生を強いられる。

自分の英雄として、尊敬する父は流刑となり、自分の母と一緒に住むこともできない。涙にくれるローマ王の姿は、周囲の人々にも哀れを誘ったという。

ナポレオンの息子とはいえ、オーストリアでは誰からも愛されたようだ。
ロシアのアレクサンドロ皇帝からも、マリー・ルイーゼの父皇帝フランツ2世からも可愛がられた。

父に似て、歴史、数学に非凡な才能を示したという。努力家で美丈夫、将来を嘱望されたが、それはまたヨーロッパの火種となりかねず、メッテルニヒの頭を悩ませる。しかも、民衆に人気があり、その影響を考えれば、メッテルニヒは、彼を母親と一緒にパルマに住まわせることはできなかった。

1821年5月、ナポレオンはセントヘレナでその波乱に満ちた生涯を終える。

イタリアを支配したハプスブルグ家は、イタリア人には嫌われているというが、
パルマだけは、マリー・ルイ-ゼが善政を行なったとされ、文化・芸術の興隆にも尽力
し、今でもその業績を称えられているという。

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マリー・ルイーゼ(パルマ女王)1791.12.12-1847.12.17

1831年イタリア解放運動で、政府の退陣、オーストリア人退去を要求する31人の代表団が、マリー・ルイーゼが政務を行っている部屋に乱入し、イタリアから退去しこのビルを明け渡せと言ったとき、彼女は一人で対応し、こう言ったという。

この国は1815年のウィーン会議で、国際法上決まったもので、それに従って我々は合法的に代表としてここにいるのです。皆様方からとやかくいわれる筋合いはありません

母にも会えない年月が長く続き、しかし頑張り屋のローマ王は、病(結核)にもかかわらず軍隊で猛特訓を行う日々を送る。しかし、いつか父のようになりたいと思いながら21歳で亡くなり、ハプスブルク家カプツィーネ教会に葬られる。
(1832年)

その後、1847年12月17日、歴史に翻弄されたマリー・ルイーゼもまた帰らぬ人となる。(56歳)

フランスで、絶大な人気を誇る革命の子ナポレオンの遺骸は、1840年パリのアンヴァリッド(廃兵院)に移された。その100年後、ヒットラーがフランスを占領した時、ローマ王の遺骸をアンヴァリッドのナポレオンの傍らに移した。(1940年12月15日)
フランス人に人気のあるナポレオンにあやかって、ヒットラーは、フランス征服の一助としたのである。

経緯はどうあれローマ王は、やっと尊敬する父の傍らに眠ることができたのである。21歳で生涯を終えてから112年後のことである。そんな人生もある。

【出典】
塚本哲也 『マリー・ルイーゼ 上・下』 文春文庫 2009年
中野京子 『名画で読み解く ハプスブルク家12の物語』 光文社新書 2008年
藤本ひとみ 『皇帝ナポレオン 上・下』 角川書店 2003年