遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

白洲次郎 君子の交わり、淡きこと水の如し

君子の交わり、淡きこと水の如し荘子

 

学校を卒業して、それぞれ異なる進路を選ぶと、就職した後の赴任先もバラバラで、なかなか友人には会う機会がない。それでも、たまに会うと、会った瞬間に、会えなかった時間と空間を一挙に超えてしまう。
利害関係がなく、多感?な時代、「ウダウダ」と過ごして、時間を共有した友人は誰にでも大切な宝だ。

イチローのインタヴュー集を読んでいたら、彼には親友と呼べる友人は4人しかいないという。世界的プロ野球選手、さぞや友人は多かろうと思いきや、意外な感があった。

イチロー曰く、
親友が10人もいます、なんてヤツのことは、信用できませんけどね
これには思わず、笑ってしまった。

戦後、日本国憲法の成立に重要な役割を果たし、通産省を立ち上げて戦後復興の立役者を演じ、東北電力の初代社長をやった白洲次郎という人がいる。英国ケンブリッジ大に留学し、流暢な英語で、マッカーサーとやりあい、吉田茂の懐刀といわれた人である。
(彼の妻である白洲正子のほうが、文化人として一般には知られているかも知れない)

 

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ブガッティに乗る次郎とロビン(ケンブリッジ時代)

 

その白洲次郎が、英国留学時代に知り合ったロビン(ストラットフォード伯爵家、後に7世で継承)という親友がいて、次郎78歳のとき、最後に会いたいと英国へ行く。大学時代、「ブガッティ」に乗り「ぶっ飛ばした」仲である。

再会して、「仲のいい子供同士が戯れているよう」だったのが、帰国する時、ロンドン空港へのタクシーの中で、二人は口数が少なくなった。

お互い、もうこれが最後だと分っている。
空港へ次郎を送っていく途中の駅で、次郎にちょっと手を上げただけで、ろくな挨拶もせず家に戻っていった。ロビンは一度も振りかえることなく、これが最後の別れとなった。

4年後ロビンの息子から、次郎の息子へ電話がある。
「ロビンが亡くなった。次郎に直接伝えるのは忍びなく、伝えてくれないか」
息子は、電話で次郎に伝えようとした。
ノーサンバーランド(ロビンの城館のある場所)から電話があった・・・」
そう言うのがやっとだった。

それだけで次郎は分ったのだろう。
「ロビンか?・・・ありがとう」
そう言っただけだったという。

それから一年後、1985年11月28日に次郎は他界した。享年83歳。
戦中、戦後を駆け抜けた日本の快男児の、「葬式無用、戒名不用」 が遺言であった。

 

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東北電力会長時代の次郎

閑話休題;戦後、次郎がGHQとやりあっていた時の会話から
ホイットニー(GHQ民生局長) 「貴方は本当に英語がお上手ですな」
白洲次郎 「閣下の英語も、もっと練習したら上達しますよ」

【出典・参考文献】
北康利 『白洲次郎 占領を背負った男』 講談社 2005年
石田雄太 『イチロー・インタヴューズ』 文春新書 2010年