遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

信長 安土城(3)思索の塔

高い塔を建てなければ、
新たな水平線は見えてこない
的川泰宣 『はやぶさの奇跡』)

トップの仕事とは、
昨日に由来する危機を解決することではなく、
今日と違う明日をつくり出すことである
ドラッカー 『経営者の条件』)

 

安土城は、一層(地下)から七層の構造を持っていた。

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一層から四層は吹き抜けになっており、一層目には、仏陀のシンボルとされる宝塔が納められていたと考えられている。二層目は台所、本丸御殿へと城外に通じ、三層目には張り出し舞台、四層目には松の間、竹の間という天皇若しくは高貴な人の部屋があり、四層目までは儀式や接待が行われる居住空間があったと考えられている。
そして五層目には倉庫が配され、この層で四層目以下の世俗的な、日常的な空間と隔されている。

六層目は不等辺八角形になっている。外側からぐるっと廻って中央の部屋に至るが、ここには釈迦と10人の弟子が描かれた「釈迦説法図」が西の壁に描かれていた。中央に畳があり、そこに座って「釈迦説法図」に相対するようになっている。宗教の哲理について内面的な対話を交わす場所だったのではないかと考えられている。

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七層目には東西南北に面した壁のある正方形の部屋になっていた。
その壁には古代中国の思想を題材にした八枚の絵が描かれていた。
伏羲(ふつぎ)・神農という伝説の三人の天子のうち最初の二人が描かれ、黄帝老子、文王、太公望、周公旦、孔門十哲孔子と、伝説の天子から、名君、名政治家、大思想家をそこに描いた。戦乱を収め、太平の世を築き、或いは太平の世を築くための理念を唱えた人々の絵である。

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これらの絵と向かい合い、古(いにしえ)の思想家との対話を通して、自らの政治理念をつくり出そうとしていたのではないか。いわば思索の塔思索のための空間

 

宗教といえば、總見寺がどのような寺であったかも書いておく必要がある。
信長は全ての仏像を、この總見寺に集めようとしていた。
信長は「日本においてもっとも崇敬され、またもっとも多数の参詣者を集めている偶像を諸国から持ち来るようにと命じた」(フロイス

神々の社(やしろ)には、通常、日本では神体と称する石がある。それは神像の心と実体を意味するが、安土にはそれがなく、信長は、予自らが神体であると言っていた。・・・彼への礼拝が他の偶像へのそれに劣ることがないように、・・・それにふさわしい盆山と称せられる一個の石を、・・・すべての仏の上に・・・収納するよう命じた」(フロイス

そうやって、すべての既成宗教より、自分を一段高い位置におこうとしたのである。
信長の代わりとなる神体(盆山)(つまりは「石」)を拝ませるのが目的で、「予が誕生日を聖日とし、当寺(總見寺)へ参詣することを命じる」のである。

父親の葬儀では、お香をわしづかみにして投げつけ、延暦寺を焼き討ちにし、一向宗門徒を虐殺した信長。その彼が宗教施設や宗教的な部屋を造るとは、なにか違和感を感じるが、全ての既成宗教の上に自らの存在を置き、自分のコントロールのもとでなら、全ての宗教を認めようとしたのではないかという。

宗教が、中世的な権威を楯に政治に介入し、既得特権を貪るなら許さない。
宗教の間」とも言うべき天主六層目の上に、これからの政治を考える七層目を配したのは、明確な政教分離の考え方の表明であったのではないか。

もうすぐ、自分の手で、戦乱の世は終わる。
その次の時代、一体どんな世の中を造ればいいのか。
信長は、ずっと先を見つめていた。
天皇と宗教を、わが手にしなければ、泰平の世は来ない。
なにも自ら「天皇」や「神」になろうとしたわけではない。
天皇」や「神」を、信長は利用しようとしたのではないか。

信長は、神など信じていなかった。
しかし、自分が民衆にとっての「神」ならば、それでもよい。
そして、古代中国の天子や政治家・思想家と語らい、「思索の塔」で次なる未来を考えていたのではないだろうか、たった独りで。

信長一人の頭の中にあった日本の未来図は、誰にも知られることなく、本能寺の炎の中に灰となった。
信長の考えを具現化したと思われる安土城もまた、それを「敵の手に渡すなら燃やしてしまえ」と考えた者の手によって火が放たれ、その歴史的に稀有なる遺産は残らなかったのである。いまはただ、数枚の図面と遺構が残るだけである。

(完)