遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

「大化改新」の真実 (1)

歴史はつねに勝者によって記される…

一方が敗れ去ると、勝った側は歴史書を書き著す。

みずからの大義を強調し、征服した相手を貶める内容のものを。

ナポレオンはこう言っている。

「歴史とは、合意の上に成り立つ作り話にほかならない」

ダン・ブラウンダ・ヴィンチ コード』

 

友人のヒロゴンが、去年レポートをくれた。
題して『大化改新」の真実 大化改新は本当にあったのか?なかったのか?』というA4版14ページに目次2ページ、資料2ページのピンク表紙付きの立派なレポートである。それをお土産にもらったモンモたち3人は「お~、すご~い」と感嘆の声。
ならば、そのレポートに敬意を表さねばなるまいと、ブログでご紹介し、若干の論評を加えたいと思う。

(注)ヒロゴンにブログで紹介してもいいかと聞いたら、今考えられているものをまとめただけなので遠慮するとのこと。なのだが、まあそう遠慮せずに、せっかくの労作を「向学」の皆さんのために無駄にはできないと、ご紹介するものです。ヒロゴンご容赦を。

【ヒロゴンの問題意識】
①「逆臣」蘇我氏はなぜ「悪人」から、評価される人物になったのか。中大兄皇子中臣鎌足は、なぜ「正義者」でなくなったのか。
②「乙巳の変」を除く「大化改新」は本当に行われなかったのか。

以下はヒロゴンレポートの超要約(参考文献;谷口雅一『大化改新 隠された真相』)。尚、レポートの趣旨を損なわずに補足した部分は「(モンモ補足)」と記述した。

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左)天智天皇(右)中臣(藤原)鎌足 (Wikipedia)

日本書紀
①681年天武天皇が編纂を命じ、持統(在位686-697)、文武(697-707)、元明(707-715)、元正(715-724)の期間に作られ720年に時の元正天皇に奏上された。完成まで41年がかかっている。
②編纂を命じたのは天武天皇だったが、編纂期を通じて、持統天皇元正天皇までは天智系で占められている。天智天皇を顕彰することは当然だった。
皇極天皇紀(巻24)の中の「乙巳の変」のかなりの部分が潤色・加筆されて創作されている。巻24は700年頃には中国原音を知る渡来中国人が書いたとされているのに、万葉仮名が使われている箇所が少なからずあり、中国語に堪能でない日本人が何らかの理由で潤色・加筆したのではないかとされる。
④714年国史撰述の詔(父天智天皇の顕彰に務めていた元明天皇)以降に潤色・加筆されているというこの時期、719年天智天皇顕彰の詔、716年乙巳の変」の大功労が表彰されている。そして701年大宝律令を経て718年養老律令制定(モンモ補足)を主導した人物が、持統天皇期に頭角を現してきた藤原不比等鎌足の息子)であった。

次に進むまえに、天皇家蘇我氏の関係図を載せておきましょう。これを見ながらの方が理解が進むと思います。

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(出典『詳説日本史研究』山川出版社1998年)

日本書紀における蘇我氏専横の記述】(「⇒」は、蘇我氏専横に否定的コメント)
蘇我馬子たちは炊屋姫尊(後の推古天皇)を奉じて穴穂部皇子(野心家で過激な行動をする人物)を殺害した。
⇒「炊屋姫尊を奉じて」とあるので馬子が独断で行動したわけではない。
②馬子は崇峻天皇を暗殺した。
⇒馬子は捕らわれていない。暗殺の翌月に推古天皇即位。即位翌月、推古天皇蘇我氏の氏寺である飛鳥寺仏舎利を安置。
⇒馬子は崇峻天皇と対立、推古天皇は息子の竹田皇子へ皇統を持ってきたかったので、利害が一致した。馬子と推古天皇との共謀説はありうる。(遠山三津男『蘇我氏四代』)
蝦夷は先祖の廟の前で、中国の天子の特権である「八佾の舞」を舞わせた。
⇒この舞がこの時代日本に伝えられた証拠はない。
蝦夷は国中の人を動員して、自分と入鹿の墓を作った。
⇒馬子の墓ですら蘇我氏一族で造ったから、それより小さな墓を国中の人を動員して作ったというのは考えにくい。
④入鹿は一人で謀って山背大兄皇子を暗殺した。
⇒「藤原家伝」には、諸皇子と共謀して乱を招く恐れのある「国家の計」のために滅ぼしたことが記されている。
中臣鎌足は、入鹿が国家をわが物にする野望(上記記述)を抱いていることに憤って、王の一族に明哲の主を求めた。
蝦夷と入鹿は、甘樫丘に家を並び建て、それぞれ上の「宮門」、谷の「宮門」と言った。子は「王子」と言った。
⇒「宮門」「王子」は「日本書紀」固有の記述、「藤原家伝」他の資料にない。
なぜ甘樫丘に家を並び立てたかについては、立地条件から見て、クーデターや諸外国からの首都防衛のためではないか。

天皇家蘇我氏の関係】
稲目は二人の娘(小姉君、堅塩媛)を欽明天皇に嫁がせた。
②小姉君は崇峻天皇、堅塩媛は推古天皇用明天皇を生んでいる。(馬子の甥、姪にあたる)
③馬子は、二人の娘を厩戸皇子聖徳太子)と舒明天皇に嫁がせている。
④6~7世紀、蘇我氏が滅びるまで、蘇我氏天皇家の安定化に寄与した。一方、蘇我氏もまた、天皇家との結びつきを自らの権力基盤とした。
孝徳天皇は入鹿の遺志を継ぎ、乙巳の変難波に遷都した。
孝徳天皇は遷都を巡って中大兄皇子と対立していた。(モンモ補足)

蘇我氏の業績評価】
聖徳太子律令制度の礎を作ったが、蘇我氏が横やりを入れ邪魔をしたので中大兄皇子中臣鎌足蘇我氏を殺して邪魔を排除したことになっている。
蘇我氏は豪族から土地を取り上げ天皇の直轄領にしてきた。「屯倉」の導入に積極的だった。
⇒馬子は二度の遣隋使を送り、蝦夷も最初の遣唐使を送ったように国際情勢に明るかった。

蘇我氏が殺された本当の理由】
百済が唐によって660年に滅ぼされた。中大兄皇子百済で、百済再興を目指した。一方、蘇我氏朝鮮半島、中国に対しては全方位外交であり、中大兄皇子とは対立関係にあった。(対韓政策の対立)
②入鹿が山背大兄王を殺した後、天皇家とのつながりは古人大兄王子だけになり、彼が皇太子の位置づけにあった。天皇の座をめぐっては、古人大兄皇子は中大兄皇子とはライバル関係にあり、中大兄皇子天皇になるためには、古人大兄王子のバックにいる蘇我氏を葬る必要があった。(天皇の座をめぐる対立)

大化改新は本当にあったのか】
改新肯定論蘇我氏滅亡が大化改新であり、改新の詔が律令国家の起点となった。(坂本太郎氏)
改新否定論
蘇我氏の滅亡が大化改新というのは日本書紀の特異な記述。「藤原家伝」に改新の事績は記述なし。
②『日本書紀』巻25・孝徳天皇期に誤用が目立つ。しかも「大化の詔勅」群に集中。これは、中国人の執筆者が亡くなった後、『日本書紀の』最終段階で潤色・加筆が行われたためである。(森博達『日本書紀の謎を解く』)

「改新の詔」について(「⇒」は否定的コメント)
第一条;公地公民。皇族の私地私民(子代・屯倉)、貴族豪族の私地私民(部曲・田荘)を全て収公し、その代償に給与を与える。
⇒公民制は戸籍を作ることと人民に対する国家的支配関係を整えること。
最も古い戸籍は670年の庚午年籍(天智朝)。国家的人民支配体制は、664年民部と家部に分けられた後、672年壬申の乱を経て673年以降の天武天皇の支配した時期にようやく完了したと考えられる。従って、公地公民制も疑問。

第二条;中央・地方の行政制度と交通制度を整える。中央では畿内を国・・里に分け在地有力者を官人に任命し、要地にには関塞、斥候、防人を配置。中央と地方は駅伝制で連絡する。
⇒「郡」「郡司」は8世紀大宝律令以降の表現。7世紀後半は「」「督領」「助督」が使用。(郡評論戦
昭和42年藤原宮から発見された木簡から、「改新の詔」は大宝令から転載・修飾があったことが決定的になった。

第三条;全国の土地・人民を戸籍・計帳を登録し、公地を人民に割り当てる班田収授の法を作る。
⇒「日本書紀」は、班田完了4か月後に戸籍を作ったとあるが、造籍が完了してから班田を行うので、第三条は疑わしく、従って「改新の詔」の原詔の存否が疑わしい。(岸俊男『造籍と大化改新詔』)

第四条;旧税制廃止、新税制制定。耕地面積に応じた田調を取り、戸別の戸調を取る。官馬・兵士・仕丁・采女の諸経費も戸別に徴収。

【「大化改新」についての結論】
①「大化改新」の実態は存在した。しかし、「蘇我氏を滅ぼしたことによって、律令国家を目指す大政治改革が始まった」というのは否定すべき。
②いつ、いかにして「大化改新」に相当する政治改革は始まったか。天智朝(在位668-671)天武朝(672-684)期に663年「白村江の戦い」に敗れたことを契機に、唐を模倣した律令国家を目指して始まった。

以上が、ヒロゴンレポートの超要約である。
これについてのモンモなりの見解を次回の記事に書いてみましょう。