遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

竹内洋 大衆の幻像

「教養とは、また節度であります福田恆存
声高に迫る品のない自己主張は、相手を動かすことはできない。
自己満足にすぎないことが多い。
教養ある人だけが節度をもった自己主張ができる。
竹内洋『大衆の幻像』中央公論新社

 

毎朝、新聞のTV番組欄を見るにつけ見たいと思う番組がほとんどない。だからスポーツやニュースぐらいしか見ないのだが、ニュースとて、コメンテータの突っ込み不足や見当違いのコメントには、日本の文化人と言われる人たちの「教養」とやらが気になってしまう。

BSやCSの専門チャネルにはそれなりのものもあるのだろうが、あの膨大な番組表から探す勇気も時間もない。
こうしたマスコミの状況につながるのだろうか、竹内洋著『大衆の幻像』中央公論新社)には、日本の社会を覆う「状況」とその背景が鮮やかに描かれている。

 

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福沢諭吉「怨望」論(注)から丸山眞男が述べた「引下げ平等主義」や「引き下げデモクラシー」の病理はいまや常態化したという。
(注)怨望;他者の厚遇を嫉み、次に自分より優位にあるとみえる他者の足を引っ張って自分の水準に引きずり落とし、それによって「彼我の平均」つまり全員の平等をはかろうとする感情。福沢はこれを絶対悪とした。

官僚バッシングや事業仕分けもそうした風潮に乗ったイベントで、他人の不幸は蜜の味、「幸運なものが没落し、廉潔なものが恥辱を受ける」場面を見たいという劣情さえ渦巻いている。引き下げデモクラシーどころか、「劣情デモクラシー」だというのだ。

かくして政治家も文化人もこの劣情デモクラシーの空気に対応した言論と行動をとるようになる。国民は「国民のみなさま」になり、大学生すら「お客様」になる。
総選挙で脱原発30年、いや20年、10年という党が現れ、「引き下げデモクラシー」に照応した公約が「切り下げデモクラシー」になる。こうした事態をポピュリズムというが、いまや事態はエスカレートしポピュリズムだという。

 

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テーブル状のサンゴ

いまやポピュリズム政治には、方便理念の区別がなくなっていて、方便が先で理念が後という転倒が起こっているのではないか。「はじめからしたいことなどないのではないか」だから、世論の風見鶏となり、アピールしそうなことを世論から探して公約とする。アピールによる持続的地位維持だけが目的となる。

ウケるためだけの政策が、われわれの政策こそがウケたのだと再転倒され、後づけで政治家としての存在証明を得る。大衆迎合しながら思いを遂げるポピュリズムではなく、迎合そのものが自己目的化したポピュリズムだ。

これは政治家に限らず、メディア文化人にも多い。
なるほど、なるほど、それで納得がいく。TVに出てくる「薄口評論家」輩出の構造が、この「転倒と再転倒」なのだと。それをマスコミに刷り込まれた「国民のみなさま」の世論すら、選択肢を提示され作為的に作られる。

「インテリや教養という表象が死滅し、(突出した人物の足を引っ張る)「引き下げ」大衆民主主義が始まった・・その流れをとめるものはない。だとすれば、われわれにできることは衆愚までには成り下がりたくないという密かな意気地を持つくらいだろうか」と悲観的だ。

 

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赤サンゴとモモイロサンゴ

この本を読むと、現在私たちが置かれている大衆社会の構造がよく見えると同時に、日本の民主主義の病理に対する処方箋が見えない迷路に入り込む。

結局、一人ひとりが、自分と世界との距離を見つめ「より悪くない」選択を積み上げていくしかないのかも知れない。「棚からぼた餅」式民主主義の試練と考えよう。

本の帯には「超ポピュリズム時代の希望とは」とある。
この本を読む限り「希望はない」かも知れないが、「だが絶望ではない」だろう。