遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

採用面接、就活生の涙のわけ

まだ大学3年や院1年だというのに学生は、秋頃から就職活動をしなくてはなりません。企業も、他に遅れてはならぬ、いい学生を一刻でも確保しようと、この時期から募集を始めます。景気のいい時も、不況の時もなぜか同じ理由で、採用募集の時期を早めたり、遅らせたりしてきました。

「学生の本分は学問をすることだ」なんて、いつから言わなくなってしまったのでしょう。それとも、もはや大学は「学問をする場」ではなくなり、就活の面接方法などのテクニックを教授する場所になってしまったのでしょうか。

「少しでもいい学生を早く確保を」、それしか考えていない企業の見識とは、一体どうしたことでしょう。学問に専念させることこそ、企業の、或いは社会の人材を育てることになるのだという自明のことを、まるで理解していないようにみえます。

「学生に、学問を通じて、考え抜く人間になってもらうこと」が、企業にとってのみならず、日本、世界にとって、もっとも大切なことだというのに。受験勉強を脱して、たとえ4年~6年でも集中して「考える」訓練をすれば、少しは日本の教育の取り戻しも可能だろうとおもうのです。

この学生たちが置かれた状況について、経団連や他の経済団体も何も言いません。「高度経済成長神話を、もう一度」、そう夢見ている人たちの無策の結果が、「失われた20年」だったのではないでしょうか。

最終面接まで辿り着いた学生に、「この状況を、理不尽だと思いませんか」と、つい質問してしてしまう。「頭にこない?」と。
誰もが「はあ」と言って、そう言われましても、という戸惑った顔をする。

若者には、この理不尽に怒って欲しいのです。80社、100社も面接を受けて決まらないこの事態に、学生たちはデモ一つせずに、運命と受け入れて従順に耐え続けています。

こんな世の中を作った我々大人たちを、堂々と批判し、そのうえで自分はこうしたいのだと熱く語って欲しいのです。大学とはそのような人間の基盤を作るところではなかったのではないでしょうか?
いくら資格を持っていたって、いくら面接の想定問答を訓練したって、そんなものは底が浅いのです。

 

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こんな理科系の女子学生(院、修士1年)がいた。

院で、再生医療(工学)について勉強し、その延長線で医療機器メーカを志望して就活を始めた。しかし、就活をしているうちに自分の将来の方針をシステムエンジニアに変更した。医療に関わりのあるソフトウエア専門会社に就職したいのだと志望動機を述べた。

勉強のこと、サークル活動のこと、アルバイトのことなどを聞いて約30~40分の面接を終わろうとしていた。その時私は、面接中感じていた違和感を質問にした。

「最後に聞いていいですか?
21世紀は、コンピュータと分子生物学の世紀と言われていて、米国では文系の学生でもこの2つの科目は必須なんですが、再生医療の分野もその意味で将来性のある、しかもあなたの学んできたことが活かせる先端分野と思います。

その道をやめて、とてももったいないなぁ、と正直思います。もう一度、どうしてその道を諦めて、SEになろうと方針を変えたか教えてくれませんか?
面接官の立場を離れて、正直とてももったいないと思ったんですが、いかがでしょう」

学生曰く、実際メーカを訪問してみて話を聞いても、思っていた職場環境ではないし、個人個人が独立して仕事をしていて、チームで仕事をするようなこともあまりないようだったので、それよりも就活の中で聞いたSEの方たちの話に魅力を感じ、共感できる方達が多かった・・・というようなことをもう一度話し始めた、・・・・と思ったら、なんと涙を流しながら話をしているではないか(驚)。

思わず私は、何か失礼なことを言ったかな、なぜ理解してもらえないんだろうと思われたかな、と、こっちがドギマギしてしまった。それでも、構わずに、私のなかの違和感を解消すべく会話をつづけていた。彼女は、姿勢よく表情も変えずに、ただ流れる涙を拭きながら、きちんとした受け答えを懸命にしていたのだった。が、結局、私の中の違和感は解消されなかった。

終了後、他の面接官と顔を見合わせ、「オレ、なんか傷つけるようなこといったかな?言ってないよね」と、しばし皆で首をかしげた。

学生を案内する係の女子社員が戻ってきて、「誰ですか、彼女を泣かせたのは」と睨むので、私はすかさず、隣にいた人事担当役員の名前を言った。
女子社員は、「やっぱり」と言って、去っていった。

面接はそうして終わったのだが、実は後日談がある。
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面接が終わって、しばし、その学生に失礼はなかったかと 、その学生とのやりとりを振り返った。パワハラまがいのことは?セクハラは?言い方に失礼はなかったか?質問や会話のやりとりに、相手を傷つけるようなことはなかったか?

こちらが、大丈夫と思っても、相手はそう受け取らない場合がある。コミュニケーションでいう「送信OK、受信ER」というやつだ。それなら、失礼があったことを前提に、「面接に来てくれたことのお礼と、もし失礼があったのならお詫びする」旨のメールを、企業として送っておこうと思い、履歴書のメールアドレスに送った。「このメールは、合否通知ではありません、・・・もし失礼があったのなら、お詫びする」と。

翌々日、返事がきた。
最初は、再生医療機器メーカを志望していたが、大学・院で同じ研究をしていた人達は、いわゆる「オタク」で、漫画やアニメのオタクのような人達とはやっていけない。チームで何かを成し遂げる楽しさ、喜びを共有できない人達とはやっていけない。訪問した企業でも、自分が思っていたチームでの仕事ではないようだった。

SEの人達の話しに共感を覚えた。仕事の内容も大事だが、人生の多くをそこで過ごすのだから、尊敬できる仲間や先輩と一緒にチームで仕事ができる環境も大事と考えた。

そう思って進路変更をしたはずが、「せっかくの先端分野の道をやめて、もったいない」と言われ、「本心に触れられ、思わず涙を流し」てしまった、とあった。
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そうだったんだ。思わず、核心を突かれてしまったということだったか。数少ない、就活体験で、大事な人生の進路を選択するのだから、誰にでもそうしたことがある。しかし、納得できる進路を選び、想定した満足な人生を送る人はどれだけいるのだろう。

自ら「選んだ」としても、或いは「それを選ばざるを得なかった」としても、多くの人はどんな選択であれ、それを引き受けて生きているのではないか。成功ばかりの人生もなければ、失敗ばかりの人生でもない。

成功もあり、失敗もあり、その中で多くの人は耐え、喜びを得る。
だから、スタートだけで成功も失敗もない。

自分が引き受けた人生を、どのように構えて担っていくのか、そのことに多くかかっている。多くの就職活動中の学生に、作家、村上龍の次の言葉を贈ろう。

趣味の世界には、自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。心を震わせ、精神をエクスパンドするような、失望も歓喜も興奮もない。

真の達成感や充実感は、多大なコストとリスクと危機感を伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している。
つまりそれらはわたしたちの「仕事」の中にしかない。

村上龍 『無趣味のすすめ』 幻冬舎

望んだ進路を選択したと思っても、君たちには辛い時代が続く。君たちを見ていると、震災にあった東日本の人々と重なって見える。それでも、よりよき市民社会の一員として、この日本と世界を担っていって欲しいと、心からエールを送る。