遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

天才SE、F氏のこと

同じ会社・部門にいても、理解できない発言や行動を取る人は多い。テーマに対する考え方や方法など、アプローチには概念、枠組みが必要だ。その考え方の部分で、「重箱の隅」に拘られると事態は進まず、大事な局面で決定的な判断に遅れる。

結局、私のシナリオ通りに事が運んでも、それに要した時間やエネルギーを考えると、こんなわかりきったことで、さほど重要とも思えないことに時間を費やしたことに対して、徒労感しか覚えないのが普通だろう。

そうしたやりとりをした日、退社時、最寄りの駅へ歩きながら、2つの想いに捕らわれていた。一つは達成感、充実感、徒労感、疲労感などとは別の類の想いであった。
これは何だろうと思っていたら、「あ~、これは寂しさなのだな」と思い至った。

もう一つは、私の師と呼ぶべきF氏への感謝の想いであった。
それは、「考える」ことを「鍛えて」くれたことへの感謝だった。F氏の「鍛え」があったからこそ、「言い合いレベルのディベート」など、つまらないものに左右されない「論理」を持てるようになったのだと、つくづくそう思わないではいられなかった。

ある仕事で、別の会社の人と仕事をしたことがあった。彼は、東大法学部を出て旧通産省に入り、イギリスへ留学後、民間の会社に移った人だった。仕事が一段落した宴会の席で、彼はしみじみと「私のピークは高校の時でした。後は下りっぱなしなんですよ」と、ちょっと悲しげに語っていた。
多分受験勉強で、彼の脳ミソはフル稼働して、後はその余禄で、社会人をやってきたのだろう。

その話を聞いて、私のピークは、F氏のもとにいた延べ8年間の時だったなと思った。それを思いながら、「高校の時がピークではないけど、私も下りっぱなしですよ」と相槌を打った。

その8年間の「鍛錬」があったから、今の自分がいる。
この間、私の脳ミソは、ずっと「ピーク」を強いられた。人生でこれほど、私の「脳」をフル稼働させたのは、F氏しかいなかった。
もはや、あなたに感謝するのは、私ぐらいでしょうけどね。

 

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サラリーマンに大切な基本は、「報告、連絡、相談」いわゆる「ほう、れん、そう」と教えられる。ところがF氏から教わったのは「報・連・相」などとは無縁の世界。

「その人なりの価値観で、矛盾のないシステム世界」を創り出すこと。価値観の押し付けや、まして業務命令などではなく「新しい価値観を創造すること」、その一点にのみエネルギーを集中すること。

血みどろでいいから、心臓(本質)をつかみだすこと。
問題が複雑なら、一つのことに焦点を絞って解決すること、そのロジックに次の要件を加えてロジックを止揚し、矛盾がなくなるまでそれを繰り返すこと。
まるで弁証法そのものであった。

本当の論議は、自分の世界を作り上げた後に始まるのだと、そして創造の喜び、楽しさは、苦悩と同義語なのだと知ったのだった。

彼はその人が作り上げた世界や価値観を知りたがった。
「どうしてそう考えるのか」「何が問題なのか」「なぜ」と、彼は問いを繰り返した。
それは相手の考えを正確に理解しようとしたからだった。そして、自分の世界との差異を知ろうとした。その差異を知って初めて、新しい世界が創出されるのだと言いたかったのだ。

「説明責任」などという概念もない。自分の考えと違っていてかまわない。ひょっとして、そこに自分の未知の領域が広がっているかも知れないのだ。

「対話を通じて真理へ到れ」、まるでソクラテスのようであった。
そしてソクラテスのように煙たがられ、多くの人に嫌われた。
私も正直、もう一緒に仕事はしたくはないなあ(笑)。
「天才」と仕事をするのは、それなりにしんどいことなのだ。

彼を「天才」と言えば変な目で見られるから、一度も口にしたことはなかった。ある日、F氏を知る大手ベンダーのある部長と話していたら、彼はF氏のことを「ある種の天才」と言ったので、思わず意気投合した。

そうだよね、天才は身近にいるんだよね。
こんなこと言うと、僕等二人とも、変な目で見られるね。当のFさんからも。
当のF氏は、本気で、「自分は普通の能力の持ち主だ」と思っていた。

SE(システムエンジニア)は作業者ではなく、「創造者」なのだと自覚させてくれたのもF氏であった。だから、「創造者」として自分は君たちと同列なのだと言いたかったのだ。上司も部下もないのだと。
直接の部下でもない新人にも一般職にも、私達部下と同じように議論しようとした。
論理の前に、人は平等なのだ。

「やってしまったものは、しょうがない」
自分の考えと一致しなくても、独断先行した部下の責任を問うことはなかった。

まだPCのない時代。
書いたシステム構造図原紙に手を入れていたのを見て、私の書いた設計書なのに真剣に怒られた。
「あっ、それは修正するな!!」
私の設計図を、自分が書いたもののように思っていてくれたのだ。
データフローのパターンを追加するのに、世界観を示す基本図を修正してはならないのだと。

「なぜこの仕事をしているのか」という問いに、

「他にすることがないからだ」と答え、
「Fさんの言うことは一般には理解されませんよね」という言葉には、
「いいんだ、オレはプロだ」と返した。
「説明責任」など、素人が言うことなのだ。

彼の設計したネットワークソフトは、ある世界的コンピュータメーカのシステムとなって生きている。
会社のサーバリプレイス時に、そのソフトを新サーバ用に移植した協力会社の人が、そのコンピュータメーカに持ち込んだ。特許をとっていればと悔やまれる世界基準の創造であった。(そう思っているのも本人以外は私のみ)

「ネットワークとはどのようなものか」、彼は部下たちに聞いた。後輩たちが誰も答えられないでいたとき、「〇〇のようなものだ」と言ったら、私に向き直って、「そうだ」と強く肯いた。(注)
なぜお前に分かるのかと、眼差しは私に問うていた。

空間を超えて、必要な情報処理空間を、サイバー空間の必要な場所に現出させること。
それがネットワークの役割なのだ。
あたかも「無」から、「時空」が創生されるようなものだ。アプリケーションは、その「時空」でようやく振舞えるのだ。

初めから上手くいったわけではない。最初の試みが失敗して再チャレンジし、2年後、ネットワークパッケージを自社開発した。まだ、インターネットが生まれる前の話だ。
業界最大手社のシステム部門の人たちが話を聞きにきた。同僚が同業の知り合いに、そのシステムに携わったと言ったら、「すごい」と驚かれた。

F氏が米国でこの仕事をしていたら、きっと大富豪になっていただろう。日本には、それがどれほどの価値があるかわかる人がいなかった。日本の大手ベンダーですら、「特許を取ろう」というF氏の話には乗ってこなかった。現に、いま彼のシステムは、外資系の最大手コンピュータ会社のものになっている。

システムが完成して二人で飲み屋で話していた時、彼は私の前で涙を流した。それは、彼の苦悩と挫折、そして再起を物語っていた。その後1~2週間、彼は連絡もせずに会社を休んだ。

彼の上司は、私に「Fはどうした?」と聞いた。
「わかりません、きっとホッとしたんじゃないですか」
上司は、「そうか」と言っただけだった。

ずっと後になって、人づてに、あのシステムができたのは、私が頑張ってくれたから・・、と言っていたと聞いた。

せっかく鍛えてもらった私の論理も、Fさん、こんなことにしか使えない。
そう心につぶやく。
その「寂しさ」なのだと、駅に向かいながら理解したのだ。
「どうせ、オレやお前は、異端だからな」という彼の言葉とともに。

私は、彼から「異端」だと言われたことを、とても誇りに思っている。
その後、私は多くのシステム設計書を見てきたが、彼の設計書に勝るエレガントな設計書をまだ見たことがない。

(注)ネットワークは「〇〇のようなもの」;ネットワークに携わろうと入社する人に、よく「ネットワークはどのようなものだと思いますか」と聞くのだが、誰も思ったような答えを言ってくれる人はいない。

(追記)この記事にはオリジナルにはない画像を追加しました。(2019年4月29日追記)