歴史教師 ビン
生きとし生くる者みなすべて、歴史を知らねばならぬ。
…正しく、…深く。
…いついかなる時代に生くる者も、
みな歴史上の一人にちがいないからである。
…おのれの歴史的な座標を常に認識する必要があるからである。
おのれがいったいどのような経緯をたどって、ここにかくあるのか。
父の時代、祖父の時代、父祖の時代を正確に知らねば、
おのれがかくある幸福や不幸の、その原因も経緯もわからぬであろう。
(浅田次郎 『中原の虹 4』講談社)
名を「敏」と書いた。
本当は「さとし」とでも読むのだろうが、生徒たちは、彼を「ビン」と呼んだ。
高校二年で「世界史」、三年で「日本史」を教わった。
人気があって、「ビンちゃん」とも呼ばれていた。
授業の中で、映画『300』にもなったテルモピュレ―の戦いについて話してくれたのもビンだった。
スパルタ軍300人の兵士が、ペルシャの大軍を相手に全滅したとき、ギリシャへ行く旅人に最後の言葉を託した。
旅人よ、ラケダイモンの里人に告げて知らせよ、
かの言葉(「自由のために戦え」)に従いて、我らここに伏せりと
(注)旅人よ、「我らは自由のために戦い、この地に死んだ」と、故郷スパルタの人々に知らせて欲しい。
ラケダイモン;スパルタのこと。コロノスという場所に、そう記された碑文が残されているという。
そうやってスパルタの兵士は、自由のために死んだんだ、と。
或いは、哲学者セネカの話のときに、こんな逸話も話してくれた。
かつて授業中に悪さをした生徒に、手をあげようとしたとき、別の生徒がオレにこう言ったんだ。
「セネカ曰く、思慮深き者、たやすく怒らず」ってね。
あげた手をどうしたものかと困ってしまった。
この話を聞いて以来、いつかこの言葉を言ってやろうと思っているのだが、なかなか機会が訪れないままだ。
戦争に負けて、民主主義教育となったとき、ある老教師が、ビンたち生徒に「民主主義における自由」について教えていた。しかし、敗戦直後の生徒たちは「自由とは何をやってもいいんだ。お前は、以前は軍国主義を教えていたではないか。なのに戦争に負けて今度は自由を俺たちに教えるのか」と物を投げた。
それでも、その老教師は、「自由には責任が伴うのだ」とひるまずに生徒を悟したと語り、その先生に物を投げたことを今でも深く悔いていると語った。
学生運動が高校生にまで及び、ご多分にもれずモンモの高校でも一部の生徒たちが大学生のデモに参加していた。
学校帰りの繁華街の交差点で、そのデモ隊が通り過ぎるのを見ていた時、いつのまにかビンが傍らに立って「デモのあの辺にウチの生徒がいるかな」と話しかけてきた。「どれどれ」と二人でしばらく見ていたものだった。
春の朝、心地よい日差しが静まりかえった教室に溢れ、ビンの太い声だけが教室に響いていた。
と、モンモの傍らをジーパンの後ろポケットに手をつっこんだまま、教室の前へ講義中のビンへ近づいていく一人の生徒がいた。グチではないか。
ビンは、ふと声をとめ、きょとんとした表情で「どうした?グチ」と声をかけた。
「あの~、ぼく授業受けたくないんですけど・・・」
ビンは、一瞬ぽかんとしたが、
「そうか、なら出て行くがよい」
と動じなかった。
ほんの10秒ほどの出来事で、生徒たちもポカンとしてことの成り行きを見守っていたが、生徒が出て行ったあとは、何事もなかったように授業を続けた。
そして次の体育の授業で、おもいおもいの体操着で校庭に集合し、出欠をとっていたら、あれっ、グチが生徒たちの中に入って来るではないか。
出て行ったんじゃないの?学校のお外にと、皆で笑い合った。
グチが出て行ったわけを聞かないまま卒業してしまったが、ずっと気になっていた出来事だった。
あんなおもしろい授業を聞かずに出て行ったのには、どんな理由があったのか。
ずっと後になって、クラスの同窓会でグチに会ったとき、そのわけを聞いてみた。
「あ~、あれね、単にビンがきらいだったんだ」
その答えに、えっそれだけの理由だけで?と拍子抜けし、
人気教師でも、きらいな生徒もいるのだと少し驚いたことだった。
君たちは大学を受験するだろうが、オレは受験のための知識は教えないぞ、
歴史の大きな流れを教える。
だから、受験勉強は一人でやってくれ、と言った。
そんなものかと誰も不満に思わなかった。
或いは、
君らは、社会に出てサラリーマンになる人も多いだろう。
でもな、覚えておけよ。ごま酒だけは飲むな。酒を飲むなら自分の金で飲め。
金を出してもらって、上司にゴマをするような酒は飲むな、ということだったか。
意味は異なるのだが、おかげで長いサラリーマン人生、上司に酌をしに回ったことが一度もない。
歴史が好きになったのは、こんなビンと出会ったからか。
高校を卒業してもう随分時が経つのに、今でも歴史を追いかけている。
歴史の面白さを教えてくれて、ビンよ、ありがとう。
まだ元気でいるだろうか。