遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

迷宮への入り口

レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯(12)

さあ、レオナルドという「洞窟」が
われわれの前には口を開けている。

その中に、・・・「怖れと願い」をもって、
入ってゆこうではないか。

首尾よくそこから抜け出る者は、
類い稀なる宝を持ち帰ろう。
(浦一章 東京大学大学院人文社会系研究科教授)

 

ダ・ヴィンチは1480年半ば頃から、メモや素描を日常的に書くようになった。思いつくまま書き続けた対象は、絵画、文学、建築、軍事技術、自然、機械工学、天文、地理、植物、医学などあらゆる分野に向けられている。

アイディアは実現しなかったものが多いが、彼は単に空想しただけではない。実現するための方法を考え、実験し考えたのだ。その思考がそのまま手稿に反映している。
芸術家ダ・ヴィンチとしては多産ではなかった。しかし、残された手稿は、彼の知性が芸術家の枠をはるかに超えていることを示している。そこから見えるのは、近代科学における経験主義の態度そのものだ。

一つのテーマが一つのまとまりで書かれているわけではない。断続的に、断片的にあらゆるテーマが、複雑に入り組んでいる。それはまるで「レオナルドの迷宮」とでもいうべき世界だ。以降私たちは、時としてこの迷宮へ分け入っていくことになる。

もちろん、古語のイタリア語、しかも鏡文字で書かれ、世界に散在する原典を時系列に追いかけるのはモンモには不可能だ。手元にあるのはごくわずかな資料にすぎないが、その断片を類推と想像力でつなぎ合わせ、この迷宮から何かを見出したいと思うのだ。

先に、後世に残された手稿の変遷についてご紹介した(ダ・ヴィンチアトランティコ手稿』)が、そのなかでも『パリ手稿B』は、現存する最古の手稿だ。その中に、公衆衛生を第一に考えた理想的な都市計画がある。

 

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ダ・ヴィンチ『いくつかの階層で構成される都市の建築学的研究』1487年頃、
パリ手稿B、フランス学士院(パリ)

1485年、ミラノは腺ペストの大流行に見舞われる。それは3年間続き、人口の1/4~1/3が失われたと言われている。清潔を好んだダ・ヴィンチのこと、ミラノの風通しの悪い建物、汚れきった通りは、何とかしたいと思っていただろう。
1487年頃、ダ・ヴィンチ都市再開発計画と呼ばれるような案を素描している。
それは2つの階層をもった都市の姿であった。

 

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ダ・ヴィンチ『いくつかの階層で構成される都市の建築学的研究』1487年頃、
パリ手稿B、フランス学士院(パリ)【上記図版の部分拡大】

上層には広場が設けられ、幅の広い歩道が縦横に走った居住区で、風通しのよい二階建ての柱廊がある。住宅は道路幅と同じ高さなので日当たりはよく、煙突は屋根より高くしてある。階段は、螺旋状にして踊り場をトイレ代わりにしないようにしている。

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ダ・ヴィンチ『いくつかの階層で構成される都市の建築学的研究』1487年頃、
パリ手稿B、フランス学士院(パリ)

下層には牛馬が通る道、倉庫、商店が集められ、水路がゴミや下水を流し、運河で物資を輸送する。

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ダ・ヴィンチ『いくつかの階層で構成される都市の建築学的研究』1487年頃、
パリ手稿B、フランス学士院(パリ)

もちろん、このような都市はミラノでも他の都市でも実現していない。
ペスト禍を防ぐには、公衆衛生を基本にした都市造りが何よりも大切であることにダ・ヴィンチは気付いていたのだ。

(つづく)