遥かなる「知」平線

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イアン・トール 太平洋の試練(上)

わたしは日本との動乱を予期してはいないが、
そういう事態もおとずれるかもしれないし、
もしそうなれば、それは突然やってくるだろう
(1913年セオドア・ルーズベルトからフランクリンへの手紙)

この広大な海域全体で日本は最強であり、
われわれはあらゆる場所で弱く無防備だった
チャーチル、英艦隊プリンス・オブ・ウェールズ、レパルス撃沈の報を受けて)

真珠湾攻撃は、
ルーズベルトに必要なことを行う許可を与えることで、
ドイツと日本両国の運命を決めた
(イアン・トール 『太平洋の試練 上』 文藝春秋

 

終戦から68年も過ぎるのに、いまだ多くの戦争に関する図書が刊行されている。
戦史という分野になるのだろうが、イアン・トール著『太平洋の試練 上・下 真珠湾からミッドウェイまで』文藝春秋)をご紹介しましょう。

 

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おそらく、人類が経験した戦争の歴史のなかでも、最大規模の戦域で戦われた海戦こそ、日本海軍とアメリカ海軍が戦った太平洋戦争だった。

著者は、それをマハンの海軍戦略から説きはじめる。古今東西の海戦を研究したアメリカ、アナポリスの教官ルフレッド・T・マハンの「戦争の勝敗は、戦艦を中心とする艦隊が一気に敵を殲滅する海戦で決する」という考え方は、日・米両海軍の当時の主要な考え方であった。
マハンは日露戦争バルチック艦隊を殲滅した秋山真之に影響を与えたことで知られ、アメリカのフランクリン・ルーズベルトもマハン「海上権力史論」の愛読者であった。

1941年12月8日の日本空母艦載機による真珠湾攻撃は、このマハンの戦略思想からの転換を意味した大胆な発想の攻撃であった。しかし山本五十六のこの独創的な戦術も、日本海軍の主要な考え方とはならなかった。むしろ彼の考え方を引き継いだのは皮肉にもアメリカ海軍だった。アメリカ太平洋艦隊の戦艦が日本の攻撃で潰え、空母しか残らなかった事情はあるにしても。

日本の真珠湾攻撃を一番喜んだのはチャーチルだった。これによって米国は戦争に参加せざるを得なくなる。唯一の気がかりは、ルーズベルトにヨーロッパ戦線の優先方針を取らせることだった。だから、ヨーロッパの目処がつくまで、アメリカは太平洋では劣勢になる。

太平洋艦隊司令部をキンメルから引き継いだニミッツ提督の名前をご存じの方も多いだろう。しかし、当時41歳だったジョゼフ・ロシュフォート海軍中佐の名前を知っている人はほとんどいないと思う。
珊瑚海海戦からミッドウェイ海戦まで、最終的にはアメリカ海軍の勝利に決定的に関わった人物である。

一般的には「ステーション・ハイポ」として知られたハワイ傍受局の長であった人物だ。太平洋を行き交う日本軍の通信を傍受し暗号解読を専門とする部隊を率いていた。
アメリカにとって最大の脅威は、東南アジアに進出した日本が、アメリカがオーストラリアへの補給を阻止するためにソロモン諸島からフィージーへ進出してくることだった。そのための足がかりとなるポートモレスビーは日本に攻略されてはならなかった。
日本軍の意図が、ポートモレスビー攻略にあると、日本軍の通信暗号から解いたのがロシュフォートだ。

ポートモレスビーをめぐって戦われた珊瑚海海戦
史上初となる空母同士の海戦は、日本は米空母レキシントンを撃沈し、ヨークタウンを大破させたが、護衛空母祥鳳が撃沈され翔鶴を中破された。しかし飛行機とベテラン搭乗員など人的損害は米国の倍だった。
井上成美が、ポートモレスビー攻略を断念したことで、アメリカは、日本側の戦略を阻止した。

一般的に珊瑚海海戦の結果は、日本側の戦術上の勝利、米国側の戦略上の勝利とされてきたが、著者は一ヶ月後のミッドウェイ海戦も一連の作戦であったことを考慮するなら、珊瑚海海戦に参加した空母翔鶴、瑞鶴がその作戦に間に合わず、ヨークタウンが応急修理でミッドウェイに間にあったことで、日本は戦術上も負けていたと評価している。

(つづく)