遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

数学教師 ジウ

人は自らに課す要求に応じて成長する。
自らが成果とみなすものに従って成長する。
自らに少ししか求めなければ、成長しない。
多くを求めるならば、
何も達成しない者と同じ努力で巨人に成長する。
ドラッカー『経営者の条件』)

 

今、じゃまされずに使える時間は少ない。・・・
サービス過剰だ。
ここでは子供たちに教える必要はない。
静かな環境と、材料を与えればいい。
皆、教えすぎだ。
(有名中学へ生徒を多く合格させるという、とある数学塾の教師)
その入塾は受け付け順だという。
「なぜ教えないのか」という質問者へ彼は答えた。
「(子供たちが)頭を使っているのに、どうして教える必要がある?」

 

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今年は、桜が遅かった。
育った地方と同じくらいの開花の季節、ちょうど学校の入学式が行われる頃が開花の時期だったのを思い出す。

同時に、その桜の季節と共に思い出すことがある。
高校に入学して初めての数学の授業のことだ。
先生が教室に入ってきて、出欠をとり終わった後、生徒は初めての授業を行う先生の言葉を聞く、・・はずだった。

教壇を降りた先生は、閉じた教科書を片手に持ったまま腕を組んで、うららかな春の日差しに満ちた教室をゆっくりと歩き始めたのだ。
生徒は、じっと先生の動静をうかがいつつ、机に置いた教科書に目を通し始める。

いつまでも言葉を発せず、歩き回るだけの先生に、生徒たちもようやくおかしいと気付き始め、一人二人と頭を上げて、先生を見やる者が出てきたのだった。

10分くらい経っただろうか、教室をゆっくり徘徊しながら、先生は静かにこう言ったのだ。

勉強は、自分でやるんだぜ

そして、再び黙したまま、教室の中を歩くのだった。

しばらくして、誰ともなく一人二人と席を立って、ノートや教科書を手にして黒板の前に立ち、問題を解き始めた。いつの間にか、教室の後ろの黒板まで生徒たちの問題の解でいっぱいになった。

先生は、黒板の前に立って、生徒が書いた答えに誤りがあると赤いチョークで添削を行い、或いは、こんな別解もあると説明した。
黒板に書かれたすべての問題の確認が終わると、また教室の中を歩きだすのだった。

中学校の数学の授業では、後ろの席でぼんやりと外の風景を見てばかりで、教科書など読んだこともなかったのに、これはどうしたことだろうと思いながらも、そうだよね勉強は自分でやるもんだよね、と何の疑問も持たずに、見事に「洗脳」されてしまったのだった。

そして、誰も黒板に出て行かなくなると、何故か先生がモンモの席の傍を通りながら、「早くやるで」とつぶやくのだ。教科書のずっと先の問題をしている手を止めて、ハイハイ、しょうがないなと思いつつ、ノート片手に黒板へ向かったものだった。

モンモの高校3年間の数学の授業は、そんなふうだった。

よくテレビに出てくる私立学校も経営する企業家が、「授業料の対価として生徒に知識や能力をつけさせるというサービス提供が先生の役割だ」などと、市場原理による教育を語るのを聞くことがあるが、そんな人の話を聞くと、あのジウの授業を思い出し、この人は何を言っているのだろうと思ってしまう。

「鉄は熱いうちに打て」と言うが、見事に生徒たちを一撃したジウの言葉であった。