遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

「常識」と「普通のこと」

みんな頭を痛めてるんなら、なぜ対策をとらない?
だが、それが人間の性質というものだ。
手遅れになるまで、だれも対策を講じようとはしない。

交差点の構造が問題になるのは、
子供が事故死したあとと決まっている。
マイクル・クライトン 『プレイ』 早川書房

政治家とは、それほどえらいものかね。
私たち(政治家)は社会の生産に何ら寄与しているわけではない。

市民が納める税金を、
公正にかつ効率よく再配分するという任務を託されて、
給料をもらってそれに従事しているだけの存在だ。
私たちはよく言っても社会機構の寄生虫でしかないのさ。
田中芳樹 『銀河英雄伝説』)

民主主義とは大きな賭けであり、
非常に珍しい政治体制だと考えている。

人間は子供の時から命令されるのに慣れていて、
ファシズムの環境の方がむしろ自然なのだ。

次ぎの世代のために、
毎日の小さな変化を積み重ねていくのが民主主義のやり方だ。
その退屈さに耐えるには、
判断力と意識をもった人々がいることが前提になる。

民主主義は常に育てていくものであり、
再生させていかなければならない。
ノーマン・メイラー;米国の作家)

 

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ミケランジェロ 『ブルータスの胸像』 1542年頃 バルジェッロ国立美術館

 

混迷の時代、企業などではよく「常識を疑え」「現状を打破せよ」と社員を鼓舞する。「常識」や「普通のこと」に捕われずに仕事をしてきた身にとって、それが当たり前で「常識」でもあったが、日常生活ではそうもいかず、様々な「常識」や「普通のこと」にぶつかる。

なぜ」や「理屈」はご法度らしい。「昔から決まっている」らしいのだ。
長年信奉してきた「しきたり」や「慣習」が、個人の意見の前に大きく立ちはだかり、合理的な考え方で物事を決められないことも多い。

常識ってなに?
昔からって、いつから決まっている?」と言おうものなら、目を剥いて口をあんぐりと開けて見られる。「そんな理屈ばかり言って」と呆れられるのだ。
世の中は理屈で動いているのではない、人の心で動いている」らしいのだ。

挙げ句に「どこで、どんな教育を受けてきたのだ?」と言われる始末だ。
戦後民主主義教育」なのだが、それとどんな関係があるか分からないらしい。

なるほど、戦争で破壊されたのは国土であり何百万という人命だったが、中世から続き、儒教の影響を強く受けた「封建的家父長制」の意識は変わらずに生き残ったのだろう。

だから「日本型民主主義と呼ばせ、こうした封建的な意識を温存させて現在に至った。冠婚葬祭の時によく耳にする「××家として」というフレーズ。もし、個人が最大限尊重される社会ならば、「」などという概念などあからさまには出てこないだろうに。

アメリカは他民族の国。もともと様々な価値観があって、だから、「常識」や「普通のこと」から自由なのだろう。

どうも日本人は、対立した意見や相手の意見を尊重しつつ解決策を、お互いに作り上げていくのが民主社会なのだということを理解していないのかも知れない。

政治家たちも自分たちの意見を主張するだけで対立を克服しようともしない。
反対するだけなら、それは自分たちの義務を放棄しているだけなのに。

国の共通の施策であるはずの安全保障の問題もそうだ。日本が経済力を低迷させていくにつれて、国家としてのメッセージ一つ、国際社会に自信をもって発信出来ない。

民主制の国家では、国家を支えるのは民衆だ。その民衆が、それぞれの意見を持ち、相手の意見を尊重して対立を克服し、共通の利益を守ることをその役割とするのが民主政体だ。

利害関係だけで賛成・反対が言われ、本当は何が問われているか明らかにすることもできず、議論が深まることもない。民主主義とは何も多数決の問題ではないのだ。

戦後民主主義教育の担い手となる学校の先生に、お願いするしかない。

子供たちが自由に自分の意見を表明し、対立する意見を克服する術を教えて欲しいのだ。そのために、いったい問題の本質が何であり、問題を克服するためにどうすればいいか。それは、「真理の追求」と同じことだと教えて欲しいのだ。

「民主主義社会を支え、担っていくために君たちは勉強をしているのだ」と。

決して「常識」や「普通のこと」に、自分を預けないで欲しいのだ。「常識」や「普通のこと」を問題解決の道具にしてしまえば、新たな歴史的課題に対応できない。

創造的解決策を見出すこともないだろう。
そして私たちの日常も、身の回りの「常識」や「普通のこと」に安易に納得しないで欲しいと願う。

「常識」や「普通のこと」にとらわれず、自分の頭で考え、自分の意見を持ち、他の人々との意見の対立を克服する日常を一人一人が続けて行けば、きっと日本を少しでも良くすることができるのではないかと思うのだが、どうだろう。