遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

ジョン・F・ケネディ暗殺から50年

天(あめ)が下のよろずの事には季節があり、
すべてのわざには時がある。

生まるるに時があり、死ぬるに時があり、・・・
殺すに時があり、医やすに時があり、・・・
悲しむに時があり、踊るに時があり、・・・
黙るに時があり、語るに時があり・・・・

わたしは知っている。
人にはその生きながらえている間、
楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。・・・

それで、私は見た、人はその働きによって楽しむにこした事はない。
これが彼の分だからである。
だれが彼をつれていって、
その後の、どうなるかを見させることができるだろう。
旧約聖書 『伝道の書』 1963年ケネディ大統領の国葬で朗読された)

 

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(連邦議事堂 大広間に安置されたケネディの棺)

 

1963年11月22日、ダラス デーリー・プラザ

大統領を乗せたオープンカーが、メイン通りからヒューストン通りへ一方通行の向きとは反対に右折した。ルーズベルト以来、ダラスのパレードでは伝統的にメイン通りを真っすぐに突っ切るルートだったが、なぜか前夜、アール・カぺル・ダラス市長(C.カぺルCIA副長官の弟)によってパレードのルートは変更されていた。

車にはジョン・F・ケネディ大統領夫妻、コナリー・テキサス州知事夫妻、そしてシークレット・サービスのウィリアム・グリア(運転手)とロイ・ケラーマンが同乗していた。シークレットサービスの後続車がそのすぐ後に続いていた。

そして、次の交差点に近づくとスピードを落とし、交差点の左向こう側角にテキサス・スクール・ブック・デポジトリー(TSBD)ビル、右向こう側角にダル・テックスビルを見ながら、エルム通りへ鋭角に左折した。

車の進行方向左手には平坦な芝生があり、大統領を歓迎する人々がパレードを見ていた。車の進行方向右手前方に20度あまりの傾斜をもった丘があった(グラシー・ノール)。そこには5本の立ち木が並び、高さ1.7メートルの木製の柵があった。その後ろには無数の灌木が茂っていた。

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ダラス デーリー・プラザ付近(点線右から左がパレードのルート)

12時30分

交差点を左折して41メートルほど車が進んだとき、グラシー・ノールから最初の銃声が聞こえた。銃弾は大統領の首に当り、ケネディは胸のあたりをかきむしった。
2発目と3発目はほぼ同時に発射された。
2発目は後方のダル・テックスビル6階から発射され、大統領の右肩下に当った。3発目はTSBDビル6階から撃たれ、コナリー知事の胸を貫通した。

4発目はダル・テックスビルから撃たれ、弾丸はコマース通りのカーブの縁にあたった。グラシー・ノールの柵の所から5発目が撃たれた。弾丸は大統領の頭部に当り、ケネディの体は後方へ倒れ込んだ。
そのとき車の左後方で白バイに乗っていたハージス巡査は、ケネディの血と脳みそを浴びた。

夫人のジャクリーヌは、車後部へ飛び散ったケネディの脳みそをかき集めようと身を乗り出し、銃声で後続車から走り寄ったシークレットサービスクリント・ヒルが車に飛び乗ろうとしていた。

大統領の車にピタリとついていたはずの後続車は、その時20メートルも離れていた。
車は、スピードを上げ、急ぎパークランド病院へ走り去った。
こうして僅か5.6秒の間に、ケネディの暗殺は実行されたのだった。

 

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アーリントン国立墓地へ向かうケネディの棺と葬列

まもなくリー・ハーベイ・オズワルドテキサス劇場で捕まり、間髪を入れずワシントンの統合参謀本部は、「暗殺は陰謀ではない」と発表した。
暗殺から3時間もたたないうちに、取り調べもせず、証拠物件も集まっていないのに、しかも犯行場所のダラスからではなく、ワシントンで発表された。

連邦犯罪ではないにも関わらず、FBIは暗殺事件の捜査権をすぐにダラス警察から奪った。遺体を移動させる前に検死をしなければならないテキサスの法律を連邦政府は無視し、地元の医者から遺体を奪い、メリーランドのベセスダ海軍病院へ送った。

オズワルドは捕まって24時間のうちに犯人とされ、暗殺から48時間のうちにFBIフーバー長官)は、オズワルドが単独犯だと断言し、ジョンソン新大統領に報告した。

フ―バは、一枚のメモをジョンソン新大統領側近に渡している。
オズワルドが真の暗殺者である、ということを大衆に納得させるために、なんらかの発表をしなければならない」(1976年上院チャーチ委員会
フ―バーは反対していたが、ジョンソンは、暗殺調査のための委員会(ウォーレン委員会)を設置した。FBIは、この委員会はすべて、FBIの調査と報告に頼る、という条件で妥協した。

我々の目的は、完全な正確さで事実を解明するのではなく、オズワルドが単独で犯行を行ったという、仮定の結論に肉付けをすることにある
(ウォーレン委員会顧問ノーマン・レドリックから首席顧問リー・ランキンへのメモ、1964年4月27日)

26冊のウォーレン委員会報告は公表されたが、遺体のレントゲン写真、検死の証拠写真、CIAとオズワルドやジャック・ルビーとの関係を記したメモは、ジョンソン大統領の行政命令で2039年まで非公開となった。
陰謀は存在せず、オズワルドの単独犯行なのに、「国家の安全に関わる」というのがその理由だった。

ウォーレン委員会に提出された証拠書類の多くは、ニクソン時代に国家記録保存所から盗み出され、事件後4年以内に重要証人が21人死んだ。
(自然死は5人、16人が殺人・事故で死亡)

ケネディを暗殺したプロのヒットマンマフィアが手配した。
ニューオーリンズのドン、カルロス・マルセロチャールズ・ハレルソン(注1)、ジャック・ローレンス(失踪)を、フロリダのドン、サントス・トラフィカンテキューバ人亡命者2人を、そしてシカゴのドン、サム・ジアンカーナ(注2)がリチャード・ケイン(注3)、チャッキー・二コレッティ(注4)、ミルウォーキー・フィル(注5)を送り込んだことが分かっている。
(注1)他の殺人罪終身刑
(注2)上院チャーチ委員会で証言する直前に殺される
(注3)1973年に殺される
(注4)1977年下院暗殺調査委員会が召喚を決めた直後に殺される
(注5)他の罪で獄死

重要な証拠も失われ、重要証人も次々に死んだ。

オズワルドが使用したとされるライフルは、1941年に製造がストップしたイタリア製6.5口径マリンカ・カルカーノ。3人のエキスパートが実射したが誰も的に当てることができないくらい、最も信頼度が低いライフルだった。

TSBDビルではドイツ製モーゼルというライフル、他の望遠装置つきライフルが発見され、ウォーレン委員会を悩ましたが、そんなライフルは無かったことにされた。後に、暗殺に使われたライフルはドイツ製モーゼルだというCIAのメモがみつかっている。

ライフルの謎、ケネディとコナリーを撃ったとされた一発の銃弾の物理法則を無視した疑惑の弾道、ジャックルビーとマフィア、マフィアやオズワルドとCIAの関係など、多くの真実は隠ぺいされた。

キューバ侵攻を阻まれ、ベトナム軍事顧問団引き上げをケネディに決められたCIAを中心とした軍産複合体は復活し、泥沼のベトナム戦争へと突き進んでいくことになる。マフィア犯罪を徹底的に取り締まったロバート・ケネディまでも道連れにして。

あの日から50年、ジョン・F・ケネディの長女キャロラインが駐日アメリカ大使として日本に赴任した。父が米大統領として初めて公式訪問を希望していたという日本へ。キャロラインは父の希望をかなえた。

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2013.11.19 信任状奉呈式に出席するキャロライン (2013.11.20 読売新聞)

 

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1960年11月 ケネディ夫妻とキャロライン

 

【参考文献】
シオドア・ソレンセン 『ケネディの道』 サイマル出版 1987年
シオドア・ソレンセン 『ケネディの遺産』 サイマル出版 1970年
土田宏 『ケネディ兄弟の光と影』 彩流社 1992年
JOHNE・F・KENNEDY ”LET THE WORD GO FORTH”
ジム・ギャリソン 『JFK』 早川書房 1992年
クレイグ・I・ジーベル 『テキサス・コネクション』 竹書房文庫 1992年
ローズ・F・ケネディ 『わが子ケネディ』 徳間文庫 1984年
落合信彦 『決定版 2039年の真実』 小学館 1993年
チャック&サム・ジアンカーナ 『ダブル・クロス(邦題;アメリカを葬った男)』 光文社 1992年
ディヴィット・S・リフトン 『ベストエヴィデンス 上・下』 彩流社 1985年
チャールズ・A・クレンショー 『JFK謀殺 医師たちの沈黙』 早川書房 1992年
ウィリアム・レモン、ビリー・ソル・エステス 『JFK暗殺 40年目の衝撃の証言』 原書房 2004年
ロバート・D・モロー 『ケネディ暗殺』 原書房 1996年
フィリップ・シノン 『ケネディ暗殺 ウォーレン委員会50年目の証言 上・下』 文芸春秋 2013年