遥かなる「知」平線

歴史、科学、芸術、文学、社会一般に関するブログです。

赤ちゃんの記憶

久しぶりに、友人のカモネに会った。
とりとめなく、話題は友人のことや家族のことから社会や哲学に至るまで、色々楽しい話をすることができた。

話がスピリチュアルな話題に及んだとき、彼はこう言った。
「モンモから電話があった時、実はちょうど電話がありそうな予感がした」
「えっ!それって予知能力じゃん、すごーい」
そして幼少時の記憶について彼はこんな話をしてくれた。
家が農家をしていて、農作業が忙しい時は家族総出で仕事にいくので、家には誰もいなくなる。

 

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ダ・ヴィンチ『猫を抱く幼児と女性の習作』フィレンツェウフィツィ美術館

 

まだ1歳に満たない赤ん坊の彼は、一人で寝かせられ、家に残された。
どうして誰もいないんだ?寂しいじゃないかと、彼は思いっきり泣こうとしたのだという。そして両手を握りしめ、お腹に力を入れてまさに泣こうとしたその瞬間、突然思ったらしい。
泣いたって、誰か来るわけじゃない。オレは一人で生きていくのだ」と。
そして大きくなって、親にこの話をしたら、
「そんなこともあったかも知れない、でも帰ってきたらニコニコしていた」と言っていたという。

小さい頃の記憶なんて、モンモにはせいぜい幼稚園の頃、砂場で遊んでいた記憶があるくらいなのだが、カモネによれば、「生まれて間もない頃の記憶は誰にでもあって、ただそれを取り出せないでいるだけ」らしいのだ。

まあ、まれに母親のお腹にいるときの胎児の記憶のことを聞いたことがあるから、生まれて間もないときの記憶だって覚えていることもあるのだろう。そう不思議な話でもなく、意外に普通にあることなのかも知れない。

それでもしかし、なのだ。単に記憶があるということではない。
一歳に満たない赤ん坊の「泣いたって、誰か来るわけじゃない」というこの冷静な認識。「一人で生きていくのだ」というこの覚悟、この気概。
モンモはいたく感動してしまった。

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ディエゴ・ベラスケスとその工房 王女マルガリータの肖像 ルーブル美術館

またこんなことも話していた。
彼の息子がまだ幼稚園のころ、家族や知人らと輪廻転生だとか、スピリチュアルな話をしていたのだという。まだ幼い息子は、話している大人たちの周囲で、話には無関心そうに遊んでいたらしいのだ。

家族や知人らと「生まれ変わり」なんかの話をしていたら、突然、遊んでいた息子が言ったという。
そうだよ、だから僕はお母さんに会いに来たんだよ
ノンタは、びっくりしたという。

いろいろあって忙しい中、会う時間を作ってくれたカモネに感謝。
もう少し時間が経って、ほかの友人たちに人生の一区切りの時期がやってきたら、今度はみんなで温泉に行って、どんちゃん騒ぎをしよう、と約束して別れた。

それにしてもカモネが乗ってきた高級車。思わず「すごーい!」
今はナビゲーションシステムがどの車にも搭載されているが、そんなシステムがなかった頃、友人たち同士で地図を手にナビゲーターをし合って走り回っていた頃が懐かしい。

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(注)ノンタの車の色は白です。

車を手放して数年以上になるが、そろそろモンモも軽自動車でいいから買いたくなってしまった。