9度目の3.11
あの日から9年が経った。
時が過ぎ、世相が変わっても、必ずその日はやってくる。
あれから、人は海を見て何を思うのだろう。
失った家族、仕事、・・・すかっり変貌した土地で、
喪失感を抱えたまま、やり直さなければならなくなった人生か。
逝った人は還らず、歳月も戻らない。
それでも、重い一歩を踏みださねばならなかった。
未来には何の保障もなかったが、
あの時の、泥だらけの地獄のような世界を抜け出すために
顔を上げて、立ち上がらなければならなかった。
ある日、読んでいた本の冒頭に、天国へ旅立った人の想いを綴った言葉が記されていた。
私が行ってしまい
きみがここに残ったら・・・
知ってほしい
見えない薄いヴェールの向こうで
違う法(のり)にしたがって
私が生きつづけているということを
きみには私は見えない
だから信じるんだ
私は待っている
たがいに気づき
ともに、ふたたび、天駆けるときを
それまではきみにはきみの人生を思い切り生きてほしい
私が必要になったら
心のなかで私の名をささやくだけでよい
・・・私はそこにいる
(米ミネソタ州、詩人コリーン・ヒッチコック『アセッション』)
9年前、火葬が間に合わず、土葬の順番を待つ人々がいた。
彼らにとって、どんなに時が過ぎても、灰色の空の下で葬列に並んだ記憶は消えない。
そんな「悲しみの記憶」を明日への勇気に変えて、また次の一年を生きていこう。
それが、先に逝った者たちへの何よりの贈り物となることを信じて。