塩野七生の「歴史」から
兵站(ロジスティクス)を重要視しない司令官は、
戦場ではいかに勇猛果敢でも、勝利者には絶対になれない。・・
戦闘では勝っても、戦争には勝てないのだ。
頭脳も筋肉と同じで、使わないでいると劣化してしまう。
塩野七生『ギリシャ人の物語Ⅲ 新しき力』新潮社2017年12月
人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。
多くの人は、見たいと望む現実しか見ていない。
(ユリウス・カエサル)
歴史の好きな私には、毎年1冊づつ刊行された『ローマ人の物語』の15年間は、年に一度のイベントであった。以前から、著者の作品を読んできたから、ルネサンス、ヴェネツィア、ローマ、ローマ後の地中海、フリードリッヒ二世、十字軍、アレクサンダー大王で完結した『ギリシャ人の物語』を最後に、ほぼBC1000年近くからAC1800年を超える西洋史2800年を読みづづけて来たと言っていい。
(下記、筆者が読んだ著作一覧を参照)
この歴史読書の至福とでもいうべき時間を恵んでくださった著者に、心からの敬意と感謝を捧げたいと思う。
私と同じように、仕事で付き合いのあった人たちが、大型の分厚い本を抱えて通勤し、職場に来るのを見ると「ああ、私と同類がいる」と内心ニヤついていたものだった。しかし、それもアレクサンダー大王で終わった。
かけがえのない多くのことが私の中に残った。
それは、多くの人間たちの物語という形で、自らの人生を生きた男たち、女たちが、時代と如何に向き合ったのかを知ると同時に、時代が変わりこそすれ、人間の能力は同じであり、その時代環境に合わせた行動や考え方は異なったとしても、もし彼らが現代に生きていれば、現代人としても卓越していたであろうし、やはり傑出した存在だったのではと思わずにいられない。勿論人間である以上、過ちも犯したであろうが、歴史上の彼らが、現代に生きる我々と等身大の人間として身近に感じられたのは、ひとえに著者の力量ゆえだろう。
特に印象に残った人物5人を年代順に挙げれば以下になる。
アレクサンダー大王(BC356-BC323)
小アジア、中近東、エジプト、メソポタミア地方全域、ペルシャ帝国からインダス河以西までの東征を行い32歳の若さで死んだが、ヘレニズム文化の礎を築いたという意味で世界史に大きな影響を与えた。
ユリウス・カエサル(BC100-BC44)
『ローマ人の物語』全15巻のうちでも、彼を描いた2巻は、その白眉であろう。
現在の西欧の枠組みを創造した壮大な戦略、透徹した分析、書いては明快な記述、行動してはその果敢さ、判断力、リーダシップ、どれをとっても超一級の人物に、この本を通して出会えたことは何物にも代えがたい幸せだったと言えるだろう。
読者は、真の天才の考え方と行動に感嘆するのではないだろうか。
この2冊と合わせてカエサル自身が書いた『ガリア戦記』『内乱記』、トム・ホランド『ルビコン』(中央公論新社2006年)を読むといいだろう。
エンリコ・ダンドロ(1108-1205)
80歳を過ぎて第4回十字軍を扇動しコンスタンチンノーブルを陥落させ、略奪させたヴェネツィアの元首。
十字軍本来の目的を逸らし、あろうことか東方教会とはいえ同じキリスト教の都を攻め、略奪するとはあり得ないのだが、個人の思惑で歴史はかくも動乱に満ちたものになる。彼個人にとっては充実した晩年のつもりだったかもしれない。きっとラテン帝国の君主になりたかったのではないだろうか。
ジョナサン・フィリップス『第四の十字軍』(中央公論新社2007年)を参考文献にあげよう。
皇帝フリードリッヒ二世(1215-1250)
ナポリ大学を創り、政教分離を唱え、生まれてくるのが早すぎた開明的君主。一人ローマ教皇庁と対立し、破門されつつも全ヨーロッパの主人公であり続けた35歳の生涯にはただただ驚くばかりだ。
ラ・ヴァレッテ(1494-1568)
70歳にして、スレイマンの大軍からマルタ島を死守したマルタ騎士団の長。
劣悪な環境下、圧倒的な戦力差に「武器は己の気概のみ」と敵に立ち向かった迫力は忘れられない。
マルタの首都名は、彼の名に由来する。
アーンル・ブラッドフォード『マルタ島大包囲戦』(元就出版社2011年)を参考文献にあげよう。
彼らの人生は、困難との戦いであった。それでも、自分に正直に能力を尽くして生き抜いた物語を知るだけでも、凡人の私には沢山の勇気をもらったと思えたものだった。
ここでは「カエサルの長い手」を使おうと部下を走らせたり、職場でフリードリッヒ二世ならこの局面をどう切り抜けるのだろうと思いをめぐらすことも楽しかった。
スケジュールに追い詰められ、30人ほどの夕刻の会議で、メンバーに「今から徹夜しないと無理」と反対された時でも、リーダーたるものブレてはならじと、「いいんだよ徹夜しても」と平然と言い放って30分でケリをつけたことがある。カエサルのおかげだったかも知れない。「徹夜」と言った時の、メンバー一同のぎょっとした目が今でも忘れられない。
予算もない、要員もいない、スケジュールも後がない、「武器は気概のみ」と他部門のメンバーに土日出社させて、困難突破できたのもラ・ヴァレッテのおかげだったろう。
発売されては読み続けた塩野七生さんの著作に、長いサラリーマン生活を精神的に支えてもらったような気がしている。そして多分、一度読んだ本を再読するんだろうなと思いつつ、この記事を書いている。
全部とまでは言わないが、もしあなたに困難な状況が続いているなら、せめて『ローマ人の物語』の第4巻、第5巻のユリウス・カエサルを読まれんことを。きっと、たくさんの勇気を貰えると思う。お勧めの2冊である。
(私が読んだ塩野七生著作一覧と参考文献)
他にエッセイもあるが省略した。